信仰と靴下が支えた人生/仕事遍歴山口信子(昭和3年生)株式会社アイオイ商会 代表取締役社長NO1

(画像はレバエレガンスアイオイ阪急三番街店)                               靴下専門店株式会社アイオイ商会(大阪市北区本社)の山口信子社長は、昭和3年10月29日生まれの87歳。今年10月には88歳になるがいまでも大阪市内の店を毎日欠かさずまわり従業員に声をかける現役社長として活躍している。
23歳になった昭和26年に名古屋で中古靴下の製造卸をしていた姉山口つくしの仕事を見よう見まねで手伝ううちに、その仕事にのめり込み、自ら靴下を担いで大阪まで営業に出かけた。大阪ではどぶ池(船場)にあった問屋筋から露店商などに声をかけ営業しているうちに大阪でアパートを借り、そこに住居兼事務所でアイオイ商会を設立し靴下を生業とするようになる。それは昭和27年、三育学院大学神学科を昭和25年3月に卒業してから2年後、社長兼従業員で一人だけの独立だった。
当時は戦後の物資統制経済が終わった直後で、戦後復興も進んでいた。露天商が建ち並ぶなかで、戦前からあった百貨店が次々と再開し、国鉄主要駅付近の露店では生活物資が豊富に出まわるようになる。昭和25、26年頃には政府の衣料品切符制度撤廃も進んだ。
とくに、昭和25年6月から昭和28年7月にかけて起こった朝鮮戦争は日本が米軍向け軍需物資の調達基地となることで、戦争で生産基盤が壊滅した日本の産業復興に拍車がかかった。戦争で負けて全てを失った日本がふたたび戦争で活気を取り戻す、なんとも皮肉な現実となる。この降って湧いた朝鮮特需のお陰で靴下産業は戦前の最盛期(昭和12年頃)の生産力(靴下機約3万台・生産量年間1000万ダース)を回復させることになる。
そんな中で日本復興のために送られてきたアメリカからの様々な生活援助物資が大量に出回りヤミ市で売られるようになる。その中には日本で知られていなかったナイロン中古長靴下があった。それは、日本人が目にしたことのない薄くて美しい長靴下。脚に履いて歩く進駐軍将校の夫人たちはたちまち日本人女性の憧れとなった。
(画像は豊橋市花中町のかつての実家)                                   山口信子は昭和25年3月に千葉県木更津市にあったミッション系の日本三育学院神学科(4年生大学・全寮制)を卒業後実家のあった豊橋市花中町に帰ってきた。その卒業式でアメリカ人女教師からもらった長靴下(ナイロンストッキング)を見た父山口貞治郎は「これはすごい。これからの靴下はこれになる」と考え豊橋の家を改造し中古長靴下のイカシ(再生)工場を家族と一緒に作る。
父貞治郎の仕事は当時で言う「イカシ業者」(中古のナイロンストッキングを再生して販売する業者)として製造し、姉つくしが販売することになる。                                      姉山口つくしは、終戦直後の昭和20年9月明治大学商学部を卒業してから豊橋の実家にいたが、しばらくして父親の商売を手伝い、得意先を増やすために名古屋の松坂屋近くにアパートを借り営業所を設けた。その当時の山口信子は大学卒業後に名古屋にいた著名な弁護士で政治家だった人物の事務所に通い、一時期は自らも弁護士になるために勉強した。だが、途中で政治家の不正義な裏側を見たことで嫌気がさし弁護士志望を諦め、姉つくしの靴下販売を手伝うことになる。
山口信子には靴下の商いとは別に自らを支えてくれたもうひとつの顔がある。それが、キリスト教セブンスデー・アドベンチスト教団への強い信仰心だ。それは、父山口貞治郎の影響で生まれてすぐに教会で洗礼を受け神とともに生きる生活習慣を幼いころから身についていた。毎週土曜日には必ず家族と一緒に教会に通った。
山口信子にはふたつの顔がある。ひとつは靴下専門店経営者としての事業家の顔。もうひとつが、キリスト教を心から敬愛し信仰するクリスチャンの顔。このふたつが一人の女性の人生に大きく影響し山口信子の人生を生き方を作り上げている。改めて、彼女が歩んできた仕事遍歴を辿る(この連載は2016年6月1日号から2017年8月1日号にマリリンタイムス「2017年1月1日号からは下着靴下経済新聞に題字変更」に掲載したもの)。          

山口信子さん

 

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