連載:仕事遍歴15 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/資金繰りに追われる日々/エトワール海渡に救われる

株式会社カドリールニシダはブラジャー、ガードルなどファンデーション専業メーカーでスタートした。売り先は船場の二葉屋や寺内、その子会社で当時アメリカの施政権下にあった沖縄向け輸出を手がけていた寺内通商など。東京ではエトワール海渡が多かった。
エトワール海渡 海渡二美子専務(当時)

昭和44年に会社を作り、すぐにサンプルを持って東京のエトワール海渡に行った。海渡二美子専務と仕入担者の坂上が会ってくれた。和江商事東京出張所時代から知っていた縁もあり「あなたの持ってくるものは全部買ってあげるわよ」と言われた。金曜日までに納品したものは翌週に現金振込で支払ってくれる、そんな有難い問屋だった。
これを、京都の三菱銀行伏見支店で話すと「いいところと商売ができた」と褒めてくれ初めてカドリールニシダの法人口座を作ることができた。エトワール海渡の名前は関東だけでなく関西まで知られた優良企業だった。
会社設立直後に経理担当で後に取締役となる藤川麗子が八幡商業時代の友人奥田潔の紹介で入社した。彼女は夜学に通いながら昼間はカドリールニシダで働いた。スタートから3年ほど経った頃に、その経理担当の藤川麗子から毎月のように「社長、今月はどうするんですか」、「大丈夫ですか」と資金繰りをせかされるようになる。新しい得意先ができ、生産する品番数は増えるが製品や資材の在庫も増える。営業の集金は120日の手形が多く、一方で支払いは20日締めの月末払い。当時のカドリールニシダは慢性的な資金不足で自転車操業に近い状態だった。
協力工場の製品が納品されると手間賃はすぐに現金で払う。生地やレースなどの資材も納品の翌月末に支払う。信用力のないカドリールニシダは小切手や手形を出せない。支払いサイトも長くできないし担保もなく銀行に話しても金は貸してくれない。
困ったあげくの末に外注先で仕事を出していたデザイナーの永田勝子には理由を話し、彼女の持っているワコールの株券を借り、それを担保に銀行から金を借り支払いにまわしたことも2回ほどあった。
だが、そんな一時しのぎの資金繰りでは財務体質はいっこうに良くならない。いよいよ、事業の継続が困難となってきた。腹を決めて東京のエトワール海渡に行き事情を話した。会ってくれたのが海渡二美子専務と坂上だった。二人を前にして「3年間お世話になりました。頑張ってきたが続けることができなりました。申し訳ありません」と謝った。話を聞いてくれた海渡二美子専務は仕入課長の坂上に向かい「何であなたは西田さんが困るようなことをしているの」と叱責した。そして「いくらお金が必要なんですか」と聞かれ「3000万円」と答えると、翌日に振り込んでくれた。その3000万円は2年かかって品物で返した。
元々、エトワール海渡の支払いは他の問屋よりも早く納品したら翌週には必ず振り込んでくれる有難い得意先だった。それがさらに支払いを優先してくれるようになる。商談して注文をもらうと品物を納品する前に金を振り込んでくれる。海渡二美子専務の指示を受けた坂上は毎週のように西田に電話してくる。そして、今週はいくら振り込めばよいか聞いてくる。50万円、100万円と話すと、その分の発注書を書き、すぐに金を振り込んでくれる、そんなことがしばらく続いた。カドリールニシダはエトワール海渡に助けられた。
恩義ができた西田は春と秋の年2回、エトワール海渡のブラジャー勉強会の講師を務め、販売の第一線に立つ従業員研修に協力した。8回ほど自ら講師をやり、その後は高橋弘が引き継いだ。勉強会はハサミで切った紙を使い2枚、3枚、4枚の接ぎカップブラ原型を作り、高さや容量で、どのように着用感が違ってくるか説明し、それが実際の品物になると、どうなるか教えた。フィッティングの善し悪し、ダメなブラジャーの見分け方などいずれも実践的で販売員に必要な知識だった。
その勉強会にはいつもノートと筆記具を持ち、教室の一番前の席に座り講義に聞き入り、西田の講義が終わると真っ先に手を上げて質問する女性がいた。それが海渡二美子だった。彼女は向学心が強く、学んで商売に活かそうとする意欲に満ちていた。(1972年創業70周年エトワール海渡本店画像)

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