連載:仕事遍歴14 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/昭和43年1月カドリールニシダ創業

野村を退職してから昭和43年1月にカドリールニシダを創業し、翌年昭和44年1月には株式会社を設立した。そのための資本金200万円を集めるには苦労した。自分の金は20万円程度しかない。友人知人から自宅に来る生命保険勧誘の女性まで声をかけ出資してもらった。何とか16人から200万円を集めることができ、発起人には友人の奥田潔、大橋秀夫が名を連ねてくれた。
創業した本社は京都市伏見区の桃山南口駅から徒歩4、5分ほどのところで、木造モルタル2階建ての雑居家屋だった。1階は八百屋、豆腐屋などが営業し、2階に上がると散髪屋に歯医者、それに1階の豆腐屋家族の住まいがあり、その先の一番奥にある8・5坪の部屋がカドリールニシダの本社だった。
スタート時の従業員は西田清美と久美夫人。同夫人の甥っ子小川温己(おがわはるき)が龍谷大学新卒で入社した。それに、小川と同じ大学の友人で高橋弘が加わる。他にミシンを踏む西田の姪っ子が一人など総勢で5人ほどのスタートだった。
縫製は、ルシアンFG時代に知り合いになった長谷川英温の工場や彦根、京都市内の内職などにお願いした。デザインは久美夫人と永田勝子に外注した。永田は元ワコールのデザイナーで満州からの引揚者。「ミスワコール」と呼ばれるほどの美人で、当時は京都の桂駅近くで独立し妹と二人でランジェリーやナイティを船場の問屋に売っていた。


インタビュー
カドリールニシダ顧問  高橋弘氏

◇カドリールニシダの高橋弘氏は京都市出身で昭和22年生まれ。昭和44年の会社設立時に入社した大卒新入社員だった。当時23歳で西田会長(当時社長)は15歳年上の38歳。すでにヤマハに就職が内定していたが、それを断りできたばかりの零細企業カドリールニシダに入社した。面接で会った西田清美に「この人なら自分の人生をかけても損はない」と腹をくくり桃山南口駅近くの2階建てバラックの奥にある8・5坪の本社に入社した。改めて当時を振り返ってもらう。…………………………………………

 

ステキーが食べたかった

私がカドリールニシダに入社したのは創業間もない昭和44年春。龍谷大学経済学部時代の友人小川は西田夫人の甥っ子で卒業後にできたばかりのカドリールニシダに就職することを決めていた。そして、私にも下着の会社だが入社しないかと誘ってきた。
すでにヤマハに就職が内定しており、他に行く気はなかったが、小川に西田社長(当時)と京都のステーキハウス「男爵」で会って話しだけでも聞いてくれと頼まれ、本音はステーキ食いたさで面接にいった。
店に入り西田社長と会う。テーブルに出てくるのはステーキのフルコース。食べたこともないようなご馳走で話しを聞いているようなふりをして腹一杯食べた。その間、1、2時間は過ぎただろうか。会長は何も食べず、自分のやりたい仕事、作りたい下着のことを一生懸命に話す。社会に貢献できないような人や会社はダメだなどと自分の夢をとくとくと語り、仕事にかける情熱が溢れていた。いつのまにか話しを聞いているとオーラがあり何か光るようなものを感じた。そのうちに、こちらもだんだんその気になってくる。ようし「下着よりも、この人にかけてみよう、この人なら自分の人生をかけて損はない」と思うようになった。
西田社長は面接している食事中に一度も「うちに来い」と入社を進める話しはしなかった。実際にはできたばかりの会社で猫の手も欲しい状況だったと思うが、そんなことは一言も口にしない。話を聞いているうちに最後の方は、ヤマハの方をどんな口実で辞めるか、そればかり考えていた。
そんな西田会長の人となりはワコールの先代社長塚本幸一氏の影響もあると思う。私自身、塚本幸一社長がお元気だった頃、二度ほどお会いしたことがある。その時の印象は昔から知っている親しいじいさんにあったような気がした。
その塚本幸一会長が亡くなった時にNBF(日本ボディファション協会)から連絡が来た。それを聞いた西田会長は役員室に入り、その日は閉じこもったままだった。相当ショックを受けているように見えた(次号に続く)。

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