連載:仕事遍歴13 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/野村株式会社(ルシアン)から誘い

ある日突然、自宅のある桃山南口駅近くの市営住宅に野村株式会社(株式会社ルシアンの前身)の谷口と名乗る見知らぬ人が尋ねてきた。京都の野村といえば吉忠と二分するレースや生地を手広く扱う大手問屋で、その野村直三社長は京都の長者番付でも上位に名を連ねる実業家だった。
話を聞くと、野村で新しくルシアンFGというファンデーションの会社を作るのできて欲しいというものだった。西田は「私は前にワコールにいた人間で他の会社で下着の仕事をすることはできません」と断ると、谷口は「違います。私はワコールの塚本社長に紹介してもらい来ているのです」と聞いて驚いた。
さらに話しを聞くと、今回のことで野村直三社長とワコールの塚本幸一社長とのやりとりが分かってきた。野村直三は和江商事が小さいときから塚本幸一を応援していた。ワコールが三菱銀行で法人口座を作れたのは野村直三の口利きだった。戦後のブラジャーはキャラコの生地から綿のブロードに変わり、それから細幅レース、そして、高級なオールオーバーレースを使うようになる。ワコールはそのレースを野村から分けてもらっていた。
野村直三はファンデーション事業で成長していた塚本幸一に「今度、うちもファンデーションをやりたいから、お宅の社員で仕事の分かる人を紹介してくれ」と相談を持ちかけた。自分についてきている社員を紹介するわけにも行かないが、世話になっている野村直三の申し出を断ることもできない。その時に思いついたのが「あ、そうだ。何年か前にうちを辞めた西田がおるやろ。あいつを紹介すればいい」ということになり、野村直三に話す。するとすぐに、野村の谷口がワコールから西田の住所を聞いて尋ねてきたのだった。
野村は昭和30年頃から新しくランジェリーを作り、台頭する量販店向けに販売し成功していた。そこで、次はファンデーションへ乗り出すという計画だった。新しく作るファンデーションの会社名はルシアンFGで野村株式会社大阪支店の近くにあった。
西田は谷口の話を受けて始めて野村にいったのは京阪電車で南久宝寺町の現金問屋寺内にいった帰りだった。ルシアンFGには野村直三社長、東大卒で住友銀行で仕事をしていた息子の野村直晴が銀行を退職し会社に入っていた。他にも尋ねてきてくれた谷口、野村社長夫人の妹の夫だった木島東京店長、それに松本圭吾、彦根の千鳥産業にいた岡川もルシアンFGに転職していた。
面会して今後のファンデーションのことを聞くと、野村では彦根の工場にレースをたくさん売っている。そこからバーターで製品を仕入れ量販店に卸せばよいという話しが体勢だった。だが、西田は違うと反論した。「彦根の工場は同じものをいろんなところに納めており、仕入先が競争相手になるから良くない。やるなら、自分たちでお客のためのオリジナルのパターンを作り、野村ブランドでやるべきだ」と。野村直三はその話しが気に入った。
翌週、ふたたび大阪のルシアンFGに行くと、西田を雇用する辞令が出ており、机と椅子が用意され定期券と名刺が置いてあった。野村直三からは「直晴を男にしてやってくれ」と頼まれた。
ルシアンFGの仕事は大変だった。これまでランジェリーを仕入れ販売していたが、新しくファンデーションを作るとなるとその資材をどこから調達しどこの工場で縫製すればよいか分かる人がいない。そこで、ワコール時代に知っていたデザイナー2人が退職していたので来てもらい、野村が新しく採用した女性2人の計4人でデザイン室を作った。パターンは西田夫人が内職で手伝う。縫製は京都にある安田商店の下請けで半沢エレガンスの製品を縫製していた工場を見つけ、そこに頼んだ。その工場主だった長谷川英温(はせがわひではる)は後にカドリールニシダの取締役となる。
ルシアンFGには3年ほどいたが、途中から事業方針が合わなくなり辞めることになる。当時は量販店が低価格で大量販売する時代。西田のやり方では生産量が思うほど増えていかない。当時はオリジナルだ、品質だ、着用感だなどというよりも、手っ取り早く製品を大量に仕入れ販売する方が簡単に金になる時代だった。ルシアンFGは製品を仕入れ量販店に販売することでどんどん大きくなるが、西田の物作りと肌合いが違っていった。

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