連載:仕事遍歴11 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/仕事と喧嘩で絶好調

ワコール名古屋出張所所長に赴任した時は営業成績を上げて、毎日を充実した日々を過ごした。スタッフは西田清美所長以下男性社員4人、百貨店の女性派遣社員が20人ほどがいた。当時の名古屋地区ワコールの一番の売上は名鉄百貨店、2位がオリエンタル中村(現在の三越百貨店)、3番目が松坂屋だった。一番の老舗だった松坂屋はまだまだ伸ばす余地があると睨んだ西田は自ら通い売上を伸ばした。百貨店の担当者にすりより、この先の催事計画をこっそり教えてもらう。それに合わせてこちらも催事計画を組み商品を集める。当時のワコール京都本社に行くと商品の取り合いが激しく、他の支店に負けじと奪い合いが日常茶飯事だった。西田はこういった喧嘩まがいの取り合いは慣れたもの。どこの誰よりも先に多くの品物を確保し催事を派手にやった。売上は月ごとに増え名古屋出張所の売り上は絶好調だった。
そんな時に事件を引き起こした。それは、またしても喧嘩だった。西田の乗ったタクシーと他のタクシーが衝突し、それが原因で客同士が喧嘩になる。喧嘩慣れしている西田は相手をコテンパンに殴りつけケガを負わせた。だが、今回は喧嘩した相手が悪かった。その相手は名古屋で一番のやくざの親分の息子だった。どこで聞きつけたか、夜になると西田のいるワコール名古屋出張所にやくざの子分たちが押し寄せてきた。何人いたかはっきりしない。当時の矢場町にあった名古屋出張所は1階が事務所で夜はシャッターが閉まっている。その2階を社宅で借り上げ、男性社員は社宅住まいだった。西田は当時結婚しており京都市伏見区桃山の市営住宅に住んでいたが、平日は名古屋出張所の社宅に住み、土曜日になると京都の自宅に帰るという生活をしていた。やくざの子分たちは夜中来て騒ぎ立てた。「出てこい」と大声を出す、石を投げつける。2階にいた西田や他の社員はじっと我慢しなりを潜めた。そうこうするうちに、たまりかねた重松という部下が「私が行って話しをつけましょうか」と言い出した。西田はとっさに「やめとけ、相手はドスを仕込んでいるかもしれない。出て行くとたたき殺されるぞ」と止めた。この重松は西田の一番の部下で、四国出身で我体も大きかった。当時のワコールにはやくざと渡り合っても一歩も引かない強者が揃っていた。朝になり子分たちが引き上げる。外に出ると目の前にあるたばこ屋の奥さんが出てきて「いやあ所長さん、昨日は大変でしたね」と言われた。思わず苦笑いしながらお詫びした。
しばらくすると、ツイードのダブルの背広を着た初老の紳士が尋ねてきた。聞くと、その親分の代理人だと名乗る。話を聞くと起きたことはともかく、歯を折った息子の治療代と血のついてボタンが破れたシャツ代は払ってくれと3000円を要求された。了解してその場で払うと、領収書のようなものを渡され男は帰った。西田はこれで終わったと内心ほっとした。当時の3000円は高額だが相手が相手だけにこれで終われば命拾いと安堵した。だが、次に心配になるのは、このことが京都本社にばれてしまうこと。というのも西田は名古屋に来る前の大阪店時代にも似たような事件を起こしていた前科があったからだ。
その前科は、玉川長一郎大阪店長と西田販売課長が一緒にタクシーに乗っていたときだった。タクシーが市電にぶつかり動けなくなった。運転手が出てきて「ここまでの運賃を払ってくれ、降りてこの先は自分で行ってくれ」という。すると西田は「詫びて他の車を用意するなりするのが当然だろ」と話すが相手は応じない。そんなやりとりをしているうちに、今度は一緒にいた玉川長一郎店長が怒り出して運転手と口論になる。そこで西田は「店長、ここは任せてください。私がけりをつけますから」といって運転手と殴り合いになり、その時も相手にケガを負わせた。この事件は京都本社に知られ騒ぎになったが、玉川店長と西田両人が詫びを入れたことで事なきを得た。
姉からの誘いで退社
喧嘩騒動はありながらも名古屋出張所は営業成績を上げていた。そんなときに京都に嫁いでいる姉から息子が新しい会社を興すので一緒にやってくれないかと誘いがあった。仕事は面白く業績もうなぎ登り、辞める気など全くないこともあり困惑した。しかし、姉の立っての願いだと懇願されたこともあり断り切れなくなる。この姉には終戦後に西田の家族は助けられた恩があった。京都に嫁いだ姉の義父は京都市青果市場組合理事長で京都の行政、警察、消防にも知られた顔役だった。市場で起こるもめごとで若い衆が警察の豚箱に入っても、この義父が顔を出すと赦免になるほどの実力者だった。姉は名古屋の実家が焼け出されたときは疎開先に食料、衣服、日用品などを頻繁に届けてくれた。戦後の一時期は姉のお陰で家族が生活できた。新しくできる会社は西ドイツのヘキスト染料会社のパウダーを輸入する代理店で、この西ドイツの会社は染料などを製造する化成品業界では世界の五大メーカーのひとつといわれていた大きな会社だった。西田は結局、姉の願いを受け入れワコールを退職し新しい会社に転職することになる。ワコールではかなり慰留された。柾木平吾京都店長には、「申し訳ない、私がもう少し君のことを考えていれば」とまで言ってくれた。送別会も開いてくれ、東京店時代にお世話になった川口郁雄からは餞別までもらう。昭和36年のことだった。

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