連載:仕事遍歴10 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/京都本社工場勤務・北野天満宮で結婚式

西田清美は川口郁雄東京店長に京都本社への転勤願いを出すとすぐに辞令が降りた。昭和30年10月のことで、東京店には昭和27年1月から3年9ヶ月ほどいたことになる。京都本社に戻った西田は本社工場で工場長をしていた木本寛冶の下で生産管理の仕事をすることになる。木本は西田が就職してから2年後に八幡商業高校の教諭を退職し和江商事に転職していた。3年9ヶ月ぶりに京都本社に戻ると和江商事は大きく変わっていた。昭和26年4月に入社した頃は従業員が僅か十数名程度。それが、帰ってみると本社工場、下鴨分工場に東京、大阪支店など300人近い従業員を抱える中堅企業となり、その事業はますます拡大していた。
この本社工場での勤務はこれまでのセールスマンとは違い物作りの基本を教わった。ブラジャーを作るための製品の企画、パターン製作、材料手配、そしてサンプルを作り。それを何度も修正して最終パターンとサンプルを完成させる。ひとつのブラジャーを作るには多くの資材が必要になり、その生地や資材が揃ったところで縫製があり製品が完成する。この物作りの全てに携わり、その管理を仕事とすることになる。もうひとつ、この仕事を通して大切なものを手に入れた。それが、生涯の伴侶となる久美夫人との出会いだ。彼女の実家は縫製工場を営み、和江商事の下請けをやっていたが、兄が塚本幸一と親しい知り合いだったことが縁で和江商事と合併し、工場の従業員と一緒に和江商事の社員となっていた。彼女は協力工場向けのパターン作りや縫製を管理する仕事に就いていた。
西田は同じ職場で久美と一緒に働く中で彼女の仕事ぶりに感銘した。木本寛治工場長の下で下請けを束ねていたが、常に起こる本社と下請けとのもめごとに毅然とした態度で臨み安易な妥協はせず、両者が最後まで納得するまで対応した。直面する問題を仕事全体から見て判断する大局観のある女性で、その采配ぶりのすごさに西田はいたく感動した。ふたりの結婚はこうした彼女の圧倒する人間力に西田が引き込まれた結果だったと言ってもよい。彼女は西田の7歳年上で、一度結婚したが離婚し子供を育てながら働いていた。ふたりの結婚式は昭和32年秋に北野天満宮で式を挙げた。
西田は生産管理の仕事をする中で、担当していた下請け工場のひとつが彦根にある千鳥産業だった。この千鳥産業の木下武夫社長は塚本幸一と八幡商業時代の友人で、それが縁でワコールの協力工場となっていた。
だが、いつの頃からか、はっきりしないがその盟友関係に亀裂が入ってきた。千鳥産業を担当する西田に対し塚本幸一社長から「本社工場のミシンを増やせ、そうすれば彦根(千鳥産業)に仕事を出さなくてもいいだろ」。当時の西田にはその意味がよく分からなかったが、塚本と木下の関係は険悪なまでに悪くなっていた。そして、両者は袂を分かつことになる。その後、千鳥産業は鐘紡の協力工場として活路を求めたが長くは続かなかった。
堀江昭二との出会い
この京都本社で生産担当をしていたときに、生涯の盟友となるデザイナー堀江昭二と出会う。彼は西田より2年後輩で和江商事に昭和28年に入社した。前職は神戸の船舶会社で船内の内装設計を手がける工業デザイナーだった。この経験がファンデーションを作る立体設計パターンの開発につながっていく。船の設計は平面に見えるが実際には水面の波に対して立体的流動物のような楕円形に設計する。その技術をブラジャーに応用することで女性の胸を覆う立体的な設計図を数学的力学的に計算し考えだし、自らその開発に没頭した。そして、女性のお椀型の胸を包み込みフィットするファンデーションパターン開発に成功していく。その技術を応用した最初のブラジャーは昭和38年2月に発売したワコールの「ストレッチブラ」で新宿伊勢丹では1日に300本売れるヒット商品となる。この開発に堀江昭二は2000枚の製図をムダにしている。当時の洋裁学校では平面製図の技法しか教えていなかったがファンデーションでは堀江昭二が初めて立体製図技法を考え出した。彼の業績はその後のワコールのファンデーション開発を新たな水準に押し上げた。その集大成となるのが昭和40年秋に発売し大ヒットとなったお腹を抑えるタミーガードルだった。

(時の人となった堀江昭二を特集した週刊現代1966年7月28日号)
胸を患わう
堀江昭二は和江商事に入社する前に持病の胸を患い1年余り仕事を休んだ。そして病気が治った後に和江商事に転職した。肺結核はペニシリンが治療薬として使われ出し、かつてのような死に至る老害ではなくなっていた。だが、一度胸を患った者に対する世間の偏見は強かった。仕事中も堀江が咳をすると職場で働いているまわりの女性たちがその場から遠ざかっていく。堀江が住んでいた北野社員寮でも同じだった。夜中に咳をする堀江に対して部屋の同僚たちが同じ部屋で一緒に生活することが嫌だと声を上げた。その時に北野寮の寮長をしていたのが西田だった。彼は寮に住む全員を集め集会を行った。そこで寮長として声を張り上げる。「堀江の病気は治っている。会社が病気の治っていない人間を入れるはずがない。これから堀江は自分の部屋で一緒に生活させる。それなら文句ないだろ」と。これで、その問題は収まり、堀江は西田と同じ部屋で寮生活を送ることになる。堀江昭二は平成22年(2010年)10月31日76歳で他界した。今となってはその時のことを確かめようもないが、おそらく、この時の西田がとった態度は堀江にとって生涯忘れることのできない記憶として脳裏に刻まれたと想像しても余りある。二人は同じ部屋で仕事のことから私生活のことまで語りあう仲になる。もっと良いブラジャーが作れないか、今のサイズでいいのか、客から寄せられるクレームのことなど、毎日夜中まで語り合った。
大阪店、京都店そして名古屋出張所                                                    本社工場で生産の仕事を覚えた西田は大阪店の販売課長として転勤した。この大阪時代には在庫の責任をとらされ降格されるという苦い経験をしている。着任してすぐに棚卸しがあり、在庫と帳簿が合わないことが発覚した。その責任は前任者にあると主張したが通らず、責任は現在の販売管理職がとらされた。大阪店販売次長の酒田清光は課長に、販売課長の西田は係長に降格され、しばらくすると西田は京都店に異動させられた。塚本幸一と中村伊一の経営トップは寛容なところもある反面、こと在庫に関しては厳しかった。今日のワコールの繁栄を見ると、その一因は創業時から在庫管理の徹底した厳しさにあったということも言える。ファンデーションは色やサイズが多くそれが在庫となり経営リスクとなりやすい。和江商事はこの怖さを創業時から経験し備えていた。在庫責任をとらされ京都店に異動になった西田に対して、同じく責任をとらされた酒田はいったん販売課長に降格したものの、すぐに次長に返り咲いた。西田より後に入社した大学卒の池野啓爾や酒田清光は社歴は短いが、西田よりもどんどん上級の管理職について行く。何か納得いかない気持ちが強くなっていった。京都店では柾木平吾店長の下で働いていたが、しばらくするとできたばかりの名古屋出張所の所長で行ってくれと頼まれた。よく聞くと、前任の所長が不祥事を起こし退職したことで、その後任ということだった。当時の名古屋出張所は名古屋市矢場町にあり京都店の管轄だった。   (タミーガードルの画像はワコール提供)

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