連載:仕事遍歴9 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/毎日遅刻 店長公認や!

和光商事東京営業所で事実上ひとりで仕事していた西田に本社の塚本社長が三鷹の知人の家に下宿を紹介してくれた。これでようやく3食寝床付きの住み家を得ることができ、久松町の天井裏生活から解放された。だが、しばらくすると東大に通う大家の息子が帰ってくるというので出なければならないようになる。思案していると近くの吉祥寺で井の頭公園の弁天様をお守りしている寺が学生5人ほどを預かり下宿をやっていると聞いた。新しい下宿先にと聞いてもらうと東大生でないとダメという話だが、何とかなるかもしれないと考え、寝床を捜していた入社間もない深沢幹弘を連れ二人一緒に吉祥寺まで面会に行った。深沢幹弘は西田自ら東京出張所で面接して入れた社員。東北出身でまじめな性格、西田と違い気の小さい男だった。行った先はお寺だった。出てきた家の奥さんと話しをするうちに、うち解けてくる。そのうち映画の話しになり当時人気だったフランス映画「天井桟敷の人々」で話しが盛り上がる。西田が「芝居が人生か、人生が芝居かなんて、あの台詞はよかったですね」と話しを乗せると、機嫌をよくした奥さんは下宿を承諾してくれた。和江商事で鍛え上げたセールスマンの能力が見事に開花した。下宿の初日には夕食にとんかつを出してくれた。西田と深沢はうれしくて貪るように食べた。当時、とんかつなどの食材は簡単に手に入るような代物ではない高級品だった。寺の住職は俗っぽい生臭坊主。名前が「はやし・てんのう」で軍隊時代の点呼の時に「てんのう」と声を出すと上官に「恐れ多くも天皇陛下のお名前を語るとはとんでもない」とびんたびんたの毎日だったようだ。西田はこの家の住職や奥さんと馬が合った。
この三鷹、吉祥寺に下宿している頃は西田が東京中を闊歩した時代だった。毎日、三鷹から国電で通勤し、東京駅まで行き、そこから人形町までバスで通勤していた。これは昭和29年に笹塚に社員寮ができるまで続くことになる。当時は白いシャツをPX(進駐軍の売店)で買いブルーのハンカチーフを胸元に挿し、映画で見たラッキーストライクを持ち歩き東京中を我が物顔で動きまわっていた。当時からかなりおしゃれな青年だった。
東京中の喫茶店を闊歩/銀座で米兵と喧嘩
久松町の天井裏生活、続く三鷹、吉祥寺の下宿生活、そして、笹塚の社員寮生活は西田が昭和27年から30年までの3年余り、東京で青春を謳歌した時代だった。当時の若者が集うのは喫茶店で戦後第一次喫茶店ブームの時代。とくに、デザインの違う様々な喫茶店のマッチを集めるのが流行り、西田も東京中の喫茶店を荒らし回り多く集めた。もちろん、そういった喫茶店には流行の先端を行く若い男女が入り浸っていた。 ある日、八幡商業の友人と銀座4丁目交差点から数寄屋橋方向に向けて歩いていた。当時の銀座は街を歩く進駐軍兵士と日本人女性のカップルが大勢いた。銀座4丁目角の服部時計店や斜め前にある松屋百貨店は進駐軍のPX(アメリカ軍の売店)として賑わっていた。
歩いていると、酔っ払った米兵から紙包みで頭をポンとたたかれた。「なにおー」と米兵相手にブロークンな英語でにらみ合いになる。「じゃ、こっちへ来い」と英語か何語か分からない言葉で米兵を横道に誘い出す。喧嘩になると英語は通じなくても意志は通用する、喧嘩ごしの態度は世界共通だ。そうこうするうちに、まわりに大勢の進駐軍兵士や野次馬が取り囲み「やれやれ」とせかす。西田が「やろうじゃないか」とすごんでいると、後ろから日系2世の顔つきをしたMP(アメリカ軍警察官)に羽交い締めにされ、まわりの野次馬の中から外に放り出された。MPが助けてくれた。西田は相手の米兵は体格は大きいが溝うちめがけて突進してぶち当たれば、酔っ払いに負けるわけがないと思っていた。似たことを近江八幡の祭りでも経験していたからだ。地元の酔っ払った若い衆相手に喧嘩になったときにもそうやって勝ち逃げたので負けることはないと思った。ここでも喧嘩師の本領を発揮しようとしたが今回は無難に逃れることができた。
給料遅配、現物支給
昭和29年になると東京店の仕事は順調だが、和江商事はピンチに陥っていた。毎月の給料が遅配するようになる。ある月などは給料が現金ではなく現物支給になり、当時扱っていた宇野千代のシルクデシンのマフラーが支給された。西田は独身だったが、所帯持ちはかなり大変だったようだ。現物とはいえ、そのマフラーを質屋に持って行ってもいくらにもならない。賢いやつなどは得意先で集金した手形をポケットに入れるやつまで出てきた。会社の業績が低迷し給料の遅配などが起こると従業員のモラルも低下する。
川口店長に頭下げる
仕事は順調だが、西田の気持ちに異変が起きてきた。それは毎日の勤務態度にも出てくる。笹塚の社員寮を出て会社に着くのが、いつも昼近くと遅刻ばかりの日々になってきた。ある日女性職員に「西田さん、それでいいの」と言われ「かまわん、店長公認や」といい返した。後日、川口店長から呼ばれた。「西田、わしゃ公認なんかしとらんぞ。最近なにかやっとるんか」と問いただされると頭を下げて「京都に返してください」と頼み込んだ。川口は義に熱く親分肌の人。西田にとって上司として相性がよく何でも言いやすかった。京都に戻りたい理由はいくつかあった。ひとつは3年間の東京担当でやるべき仕事は一通りやったという達成感。もうひとつは、仕事に対する漠然とした物足りなさを感じるようになった。 それは友人との会話からも感じた。東京店のあった久松町や人形町では、仕事が終わるとよく銭湯に行った。そこでは、八幡商業卒の先輩や同僚も近くの繊維会社で働いており、よく出会い田舎の話しや仕事のことで話しが弾んだ。話を聞いているうちに、その会話に入っていけない自分がいることが気づいた。よく聞いていると友人たちは繊維の相場の話しをしてくる。何コリいくらだとか、糸の原料がキロいくらになったといった話しだが、何のことか分からない。西田は製品を東京中持ち歩いて売っているが、その生地値や原料の相場のことは全く分からず会話について行けない自分に不甲斐なさを感じた。繊維の商売でも自分が知らない世界がたくさんあるということを知り、それが妙に気になるようになる。
もうひとつ理由があった。それは東京の書店で見つけ読んだ「セールスエンジニア」という本だった。そこには、販売もエンジニアでないとだめで、製品の素材原料から製造工程まで知ることが重要だなどといったことが書かれていた。「これだ!」と西田は感じた。もっと仕事に関する多くのことを知りたいという気持ちが強くなっていた。                                      西田清美20歳

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