連載:仕事遍歴8 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/ラバブルを仕入れ販売 東京中を駆け巡る

東京市場を切り開き百貨店の口座を獲得していけたのは藪中、畑中、西田などの頑張りもあるが、それだけではなかった。もうひとつはアメリカから上陸したばかりのラバブル製ファンデーションの仕入販売で百貨店口座が取れていった側面もあった。昭和28年末頃にはラバブルの新川工場(東京都中央区)ができ、和江商事はブラジャーを仕入れ販売していた。
当時、ブラジャーや装身具を扱う和江商事(ワコールの前身)は知名度もなければ信用もない。戦後の統制時代に這い上がってきた担ぎ屋(行商人)の商売が少し大きくなっていた程度のものだった。それに対して相手の百貨店は江戸時代から続く老舗ばかり。その距離を埋めるには、戦勝国アメリカに対する日本人の舶来嗜好を上手く利用して「アメリカ製ラバブルブラジャー」を看板にすることが有効だった。
胸ぐらをつかむ喧嘩騒動
昭和29年に入ったある日、和光商事の塚本社長は上京してきて「おい西田、ラバブルに行こう」と誘いタクシーで向かった。当時のラバブルの縫製工場は中央区新川だが、本社事務所は江東区永代にあった。塚本は着くなり、居合わせたラバブル社のニコラス・シェンク社長の胸元をつかみ喧嘩になる。横にいたシェンク夫人ななさんが慌てて二人を止めた。近くにいた西田は何が何だが分からずびっくりして見ていた。その場が収まり話しを聞いていると、ラバブルと和江商事は販売契約を結んでいた。その契約はラバブル製品すべてを和江商事が扱うという独占販売権だった。だが、ラバブル社はそれを破り、自らセールスマンを雇い横浜などで販売行為を行っていた。塚本はその事実を知り激怒して乗り込んできたのだった。
ニコラス・シェンク社長
日本ラバブル社のニコラス・シェンク社長は昭和28年(1953年)にアメリカ・ラバブル社の出資を受け合弁で日本ラバブル・ブラジャー社を作った。会社設立は翌年の昭和29年(1954年)となる。彼はオランダ人で戦争中オランダ領インドネシアで日本軍の捕虜となり、お茶の水にあった捕虜収容所に入る。その収容所は「自由で独創的な学校作り」を目指し大正10年(1921年)に設立された文化学院だった。その文化学院創立者西村伊作は戦争中に反戦を唱えたことで投獄され学校は閉鎖された。そして、学校は日本軍により接収され捕虜収容所となっていた。その学校で教えていた先生や生徒たちはキリスト教、西洋文化、英語などを学んでいたこともあり連合国軍捕虜の世話をすることになる。その中の一人が西村伊作学院長の娘西村ななで、彼女は兵士たちの世話をするうちにニコラス・シェンクと知り合い親しくなり終戦後に結婚した。このお茶の水にあった文化学院は西田にとっても少なからず縁のあるところだった。短い期間だったが東京出張所にいたときに、昼間は和江商事で働き、夜はこの文化学院に通い早稲田大学を目指し授業に通った。
西田は東京で様々な人を知り見聞が広がることで自分の知識や技能不足を痛感するようになっていた。勉強嫌いな西田が初めて「勉強したい」と考えた時だったが、志むなしく僅かな期間で断念した。それは、毎日忙しく動きまわる仕事を終えて通った教室では眠らないように一番前の席に座り授業に向かったが、疲れていつも眠ていた。
戦後、ニコラス・シェンクは妻なな夫人を伴い伝手を使ってアメリカラバブル社のオーナーと出会い、そこでファンデーションの製造技術を習得して日本に戻り日本ラバブル社を作った。彼はユダヤ系オランダ人で、当時、アメリカの下着業界で活躍していたビジネスエリートはユダヤ人が多かった。余談になるが西ドイツ本社のトリンプが戦後、ヨーロッパ、中近東、北アフリカ、アジア、南米と世界に進出したが北米市場は進出が遅れた。それには様々な理由があるとされているが、ひとつには、アメリカのファンデーション業界にユダヤ系商人が多く、ドイツ製品に対する抵抗感が強かったという事情もあった。
一人で東京中を駆け回る
昭和27年1月に東京出張所ができ、当初は3人(籔中所長、畑中、西田)だったメンバーは半年経つと籔中、畑中の両人は病気でいなくなる。昭和27年11月に人形町に東京出張所を移転する頃には籔中所長が時々くる程度で、東京の仕事は西田一人ですべてこなしていた。この頃はとにかく忙しかった。昼間は東京で採用した女子の事務員が電話番をかねているだけ。日中は各取引先に出向きセールスしながら発注書を書き集金をする。帰ると注文をまとめ本社に発注し、京都から届く荷物をほどいて仕分けする。そして、得意先に送る荷物を仕分けして木箱に詰め運送屋に渡す。最後に自分で手持ちする分を仕分けしておく。
昭和28年(1953年)春に川口郁雄が東京店の責任者で赴任し、新たに東京現地採用した深沢幹弘が戦力として加わるまでは西田一人で東京の業務を担っており、いくら時間があっても足りない忙しい毎日だった。
そのころ和光商事で売れていたパニエを現金で買ってくれていた御徒町の得意先がヤミのたばこを譲ってくれた。納品にいくと「たばこならいつでも分けてやるよ」と言われ、いつもラッキーストライクを最低3、4ケースは分けてもらい、それを上手く利用した。とくに、百貨店への納品には役に立った。荷物を持って納品に行くと業者が行列して並んでいる。脇から「こんにちは」と仕入れ担当者に近寄り、そっとたばこ一箱渡すとすぐに荷物を引き取り納品書にサインしてくれた。当時の外国製たばこは貴重な嗜好品で手に入れるのが難しい時代だった。ひとりで東京中を駆け回っている中で生み出した知恵だった。(画像提供:元ラバブル社員・小林榮三氏)

ニコラス・シェンク社長

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