連載:仕事遍歴7 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長/毎日通った三愛、落とせなかった三越

三愛は銀座のなかでも水着や下着では日本一のデパートだった。老舗百貨店が多い銀座の中では、アメリカなど海外から入ってきたおしゃれな水着や下着はどこよりも早く仕入れ品揃えしていた。しかし、下着売場のガラスケースのなかは半沢商店、D&M商会、シービー(好美産業)、高橋勉商店(ラブロン)など東京にある競合メーカーのブラジャー、コルセットが占拠していた。担当した西田は毎日トランクを持って通った。会ってくれたのは今福部長や小島課長で、行くたびに「悪いな、見ての通りケースの中はいっぱいでこれ以上は入らない」という返事ばかり。それでも毎日通った。昼間に行くと忙しく仕事をしているので誰も相手にしてくれない。店が閉まる直前に行くと、僅かな時間でも立ち話ができる。夕方に行っては立ち話しして帰る。そんな毎日が続いた。
冬になると雪が降ってくる。そんなときには着ているコートにわざと雪をつけて行った。そうすると小島課長が「西田さん、若いのに大変だな」と言って少し時間をとって話を聞いてくれる。ある時、小島課長にトランクを開けて品物を見せることができた。商品のブラジャーを見せて説明すると「まずまずやな、けどレースがついている物があればいいが」と話す。その時に西田はここだと考えた。「分かりました。すぐに本社に連絡してレースのついた新しいブラジャーを作り持ってきます」と伝え、すぐに営業所に引き返し、そのことを本社に連絡した。レース付きのブラジャーサンプルを至急作り送ってもらうことにしたのだ。
しかし、サンプルがくるまでには1ヶ月はかかってしまう。そこで、少しだけレースがついたブラジャーがあったので、それを持って翌週小島課長に会いに行った。「新しいサンプルではありませんが」と前置きしながら。そうすると小島課長は「こうじゃなくてもっとレースを増やして」などといった注文をする。そして「分かりました。次は必ず満足していただけるようなサンプルをお持ちします」と返事して帰った。これは、サンプルができあがるまでの時間稼ぎだった。「レースのついたものを」といっても一ヶ月もすると忘れてしまう。そこで、レースの話しをつなげるために少しだけレースのついた品物を持って行き、忘れられないように時間を稼いだ。
そして、1ヶ月後、華やかなレースのついたブラジャーサンプルが届いたのですぐに三愛に出かけた。トランクを開けて見せたブラジャーはレースのついたきれいなものだが、それを見た小島課長は「まあまあだな」と言ってはくれたものの商談は進まず「また、いい物ができたら持ってきて」で終わり。意気込んでいた西田は消沈した。
スカーフ什器で満杯
西田は三愛の攻略に攻めあえぎながらも、来る日も来る日も三愛に通っていた。立ち話で冗談を飛ばしながら何か突破口はないか、そのヒントをいつも探っていた。当時の百貨店ファンデーション売場はガラスケースにブラジャーやガードルを入れて販売する。お客の要望があると販売員がガラスケースから品物を取り出し販売するやり方。販売期間はだいだい春が3月頃から立ち上がり9月で売れなくなり、10月になると売場がなくなる。その後はスカーフ、マフラーなどの服飾品売場に変身する。当時の和江商事は半年がファンデーションの販売、残りがスカーフやマフラーなど防寒用の服飾品を販売していた。つまり当時のブラジャーは春夏だけの季節商品だった。冬が終わり春になると、ふたたびブラジャーに売場が変わる。そうなると秋冬に使っていたスカーフ、マフラーの販売什器を集めて撤収し保管する。事務所はスカーフ什器がいっぱいで足の踏み場もない。西田はそれが気になって仕方なかった。
裸で売るブラジャー
ある日のこと、いいアイデアを思いついた。会社に山のようにあるスカーフ什器にブラジャーをかけて裸で売れば、ガラスケースの上で売れる。そうすれば、ケースのなかにあるブラジャーと違う場所だから扱ってくれるのではないかと考えた。すぐにブラジャーと書いた手作りのポップをスカーフ什器の上に付け三愛に駆けつけた。応対した小島課長は「面白いが売れるかな」と心配顔。西田は「これならガラスケースの上で什器にかけて売りますから、他のブラジャーも一緒に売れます」と説得し「じゃ試してみるか」となる。裸のブラジャーをスカーフ什器にかけて販売するやり方は三愛だけでなく、日本の百貨店ではやっていない売り方だった。
売れて取り引き成功
スカーフ什器にスカーフではなくブラジャーを裸でつるし販売がスタートした。そうすると、あれよあれよという間にガラスケースの上で販売している和江商事のブラジャーが売れていく。売れることが分かると、三愛との取り引き口座ができ什器2台、3台と増えていく。お客は販売員を気にすることなく自分でブラジャーを手に取り触り買うことができるようになる。いつの間にか、ガラスケースの中で売るブラジャーよりも、ガラスケースの上で売る和江商事のブラジャーの方が売れるようになった。西田が三愛攻略に苦心した末に生み出したやり方は、ブラジャーを裸でスカーフ什器にかけガラスケースの上で販売するやり方だった。この販売方法はブラジャーを消費者にとって身近な商品にした。当時の女性たちはブラジャーの着用経験がなく、触ったこともない。まして、販売員にガラスケースから取り出してもらうにはかなりの勇気が必要だった。これはもちろん、百貨店では日本で初めての売り方だった。
落とせなかった三越
新宿の伊勢丹は籔中所長と西田で通い口座を開いた。浅草橋界隈の問屋に始まり、主な百貨店は次々に落としていった。だが、最後まで落とせなかったのが西田が担当した三越だった。当時の百貨店は三越、高島屋が一番手だが、京都で早くから高島屋との取り引きができていたことで、東京の高島屋との取引口座は早くできた。しかし、三越は何回通っても会ってくれない、品物を見てもくれない日々が続いた。半沢商店の大木専務と2人の女性営業担当ががっちりと押さえていたからだ。
三越の日本橋本店の仕入れ窓口に行くと、毎日セールスにくる問屋が新製品を持って行列ができていた。床にラインが引いてあり、そのラインに沿って並び、ひとりひとり商談が終わり順番が来るまで待つ。毎日行くので、西田の顔は覚えられていた。そして、毎日バイヤーに言われることも同じだった。「もう来なくてもいい。お前のところの品物はいらない」。それでも翌日も三越のラインに沿って朝早くから並ぶ。そうこうしているうちにだんだんと順番が近づいてきて、三越のバイヤーが西田の顔に気づくと「おい西田、また来たのか。もう来なくてもいいから帰れ」と怒鳴るように叫ぶ。何度となく通ったが最後まで落とせなかった。三越と大丸は大阪も含めて和江商事が一番攻めあぐんだ百貨店だった。三越は翌年、川口郁雄が東京店長に赴任してから商談が成功し口座ができるが、西田は落とすことができなかった。(下の画像はオリンピック後の昭和40年頃の銀座三愛下着売場)

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