連載:仕事遍歴 西田清美(昭和7年生) カドリールニシダ会長 NO6 暑い、うるさい、臭い

和光商事(ワコールの前身)入社1年目はそれまでの装飾品やスカーフ、マフラーだけでなく新しく扱いだしたブラジャーやガードルなどの販売で事業は拡大し忙しい毎日だった。京都高島屋では専用売場ができ、難波高島屋は派遣社員第一号の関順子(せきよりこ)が奮闘し売上げを大きく伸ばしていた。彼女は性格が明るく誰からも好かれた。西田は関順子と同じ年。毎朝、京都本社に出社し荷物を風呂敷いっぱい担いで大阪の難波高島屋に出勤する彼女を手伝い、一緒に荷物を担いで国電に乗り大阪まで運んでいた。
そんなある日、難波高島屋のバイヤーで中西シャッポーと呼ばれていた人物に呼び止められた。「お前は夕方は大丈夫か、なら、出口で待っとれ」。夜の飲み会の誘いだったが酒は得意ではない。その夜「飲めない」というと頭の髪の毛をつかまれ、ビールを口から無理やり飲まされた。和江商事セールスマン最初の手荒い歓迎だった。その中西シャッポーに「ところで、お前のところのシルクのスカーフは原価なんぼや」と聞かれた。だが、原価など聞いたこともなく「分かりません」としか言えなかった。自分が扱うスカーフの原価がいくらなのか知らないし、教えてもらってもいない。ただ、上司に言われたとおりに荷物を運んでいるだけの仕事だった。その中西が続けて言った。「お前、原価も知らないセールスがおるか。うちの5階に生地売場があるやろ、そこにあるシルクデシンの生地がなんぼか見てこい。その下代がいくらか、だいたい分かるやろ。そこから問屋の利益を引けば原価がいくらか分かるやろ」。この中西シャッポーには手荒い歓迎を受けたが、それ以上に西田はセールスマンとして原価を知ることの大切さを教わった。
籔中、畑中が入社
昭和26年(1951年)の秋頃、塚本を頼り軍隊時代の上官だった藪中謙二とその友人畑中保男の二人が和江商事に加わる。この二人は天理教の教会で知り合い、一緒に仕事を求めて和江商事に来た。戦後しばらくは、海外からの引き上げ者や復員軍人などが帰国しても職にありつけず路頭に迷う人が大勢いた。そんな人たちを受け入れたのが天理教の教会だった。そこに行けば、温かい食事と寝場所が与えられる。そんな中で二人は知り合い一緒に仕事を捜していた。
そんな時に塚本社長から東京出張所開設に伴い藪中、畑中と一緒に3人で東京転勤しろと辞令が出る。行きたかった東京への思いが実現することになる。
暑くて眠れない毎日
昭和27年(1952年)1月に東京都中央区久松町にある二栄会館2階に3坪の東京出張所が開設された。二栄会館といってもしょせんはバラックの2階建て。階段を上がっていくと、奥から2つめの僅か3坪の部屋が東京出張所で、机と棚を置くと他には何も置くことができない狭い部屋だった。問題は住まいの確保。東京に行った当初は塚本の知り合い宅に泊めてもらったが、いつまでもいるわけにいかない。籔中は家族が東京にいて自宅があった。畑中は横浜に彼女がいてそこに寝泊まりして通勤した。
だが、西田は行く先がない。そこで考えたのが出張所の屋根裏生活。天井の板を剥がし、近所の大工に頼んでハシゴを作ってもらい天井まで上がれるようにした。昼間はハシゴを隠し、夜になり誰もいなくなるとハシゴをかけて上り下りができるようにした。一見すると職住接近で好都合のように見えるが、実際には大変な思いをする屋根裏生活だった。天井裏は仕切りがなく広い。最初は木箱を敷いてその上で寝た。
夏は昼間の照りつける太陽の熱がバラックのトタン屋根にこもり、夜は暑くてどうしようもない。とても寝ていられる状況ではなかった。梅雨時になると毎晩雨が降る。トタンにたたきつける雨音は耳元で太鼓をたたくような轟音でうるさい。この騒音では寝ていられない。おまけに風のない夜になると1階下奥にある便所の臭いが上に上がってきて天井裏にこもり臭くていられない。大変な屋根裏生活だった。
食事も大変だった。どこでもコンビニがあり必要な物はすべて揃うような時代ではない。魚を焼くコンロと米を炊く釜は自前で揃え自給自足の生活。といっても朝晩の食事はサンマなど魚を焼いて飯を食べるだけ。毎日魚を焼くのでその臭いが部屋中にこもり、棚にあったブラジャーにも魚の臭いがついた。ある日、京都からきた塚本社長は「西田、うちのブラジャーは魚臭くないか」と聞かれたが「いやー、そんなことはないでしょう」ととぼけてやり過ごした。
塚本はある日、階段で上がり下がりがきつそうな西田の体に驚いた。西田は毎日白米と魚だけを食べビタミン不足に陥り脚気に病んでいた。塚本から「苦労かけて悪いな」と声をかけられ3000円くれた。給料が4100円だった頃の3000円でうれしかった。「これで精のつくものでも食べろ」、そう言って励ましてくれた。
軍隊式営業の日々
東京市場の攻略は大変だった。元々、籔中、畑中の両人はブラジャーの製品知識や製品のつけ方、販売方法など知らない。そこは西田がすべて補いながら毎日の営業を進めていった。営業スタイルは軍隊と同じ。籔中中心に東京の地図を広げ、その上に分度器を使い攻略する店を示し、そこに小さな旗を立て、今日はここを攻略する、明日はここだといってサンプルを持ち軍隊同様に挙突猛進していく。最初は畑中と西田で浅草橋から日本橋周辺にかけ問屋街に飛び込みセールを行なった。だが、競争相手も強かった。とくに東京はブラジャーやコルセットなどは半沢商店が百貨店から問屋まで売場のショーケースを独占していた。
海渡商店
東京の成功は海渡商店(エトワール海渡)と三愛との取り引きが成功したことだった。海渡商店は統制品ではない装身具中心に事業を拡大していたが、昭和25年頃から衣料品切符制度が徐々に撤廃されるや繊維製品の扱いを増やしている最中だった。ブラジャーという綿製品はこれからの成長する品物として好意的に扱ってくれた。とくに、西田がセールスで強調したのはブラジャーの着け方やサイズなど。当時の日本人女性の大半はまだブラジャーなど身につけたことのない人が大半だった。従って、売るときも販売する女性たちに商品知識やサイズを啓蒙することがどうしても必要だった。これが、海渡商店の売場に立ち販売する女性たちに役に立った。とくに、海渡商店は日本橋界隈の二次問屋のなかでも群を抜いていた。品物の品質や品揃えの良さ、掛け売りなしの正札現金販売という売り方まで、時代の先端を行く商売のやり方が他の追随を許さない勢いだった。また、和光商事のような小さな仕入先にとっては、その取引条件も魅力だった。海渡商店は小売店相手に掛け売りではなく現金商売していたが、仕入先にも、その日に納めた品物の代金は翌週までにはすべて支払ってくれた。商品代金の回収が早くて安心で信頼して品物を出すことができた。

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