仕事遍歴 西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長5/奥さん、大将が呼んでまっせ/ブラジャー生産本格化

和光商事(ワコールの前身)入社当時の仕事は扱っている装身具やコルセットの営業と出荷が主な仕事でブラジャーなどの婦人下着はまだ扱っていなかった。社員は十数名程度だが、いつも会社にいるのは社長の塚本とNO2の中村だけで、他には一兵卒の西田と池沢というもうひとりの新入社員がいた。池沢は昼間は和江商事で働きながら夜学に通っていた。川口、柾木、服部などの先輩たちは営業で地方を飛び回っておりほとんど会社にいない。
塚本幸一社長は頻繁に東京に仕入れに通っていた。いつも乗っていた汽車は「特二」と言われる夜行列車。毎回、夜行で東京に行き、また夜行で帰ってくる。だいたい3泊4日で、品物が思うように集まらないときは5日かかることもあった。その塚本社長を朝の6時に京都駅まで自転車で迎えに行き品物を受け取るのが西田の仕事だった。大きな風呂敷に東京の半沢商店から仕入れたコルセットがいっぱい入っている。それを自転車の荷台に載せて押して会社まで戻ってくる。帰ると、出張で地方を回っている先輩たちから日報や集金した小切手、手形、受注票などが入った書留が届く。それを開封し、小切手などは中村に渡し、受注票を見ながら品物を指定された通り仕分けして木箱に詰めて得意先に出荷する。それが毎日の仕事だった。もらった給料は4100円だった。
乳バンドはないか
毎日送られてくる日報の中に「乳バンドはないか」という問い合わせが入っていた。地方の問屋や小売店をまわっている営業マンは装身具中心に営業しているが「こんなものはないの」と言われると扱っていようがなかろうが、その品物を探し売るというスタイルで商売を広げていた。
当時の和江商事は装身具の問屋ではあったが専業ではなかった。得意先から求められると何でもそろえ売り込むことで売上げを作っていく、いわば「よろず屋」に近い商売で、それが地方で物がない時代には重宝された。
塚本と西田は乳バンドを探した。京都には呉服の問屋がたくさんあり、和装用の乳バンドを作り売っていた。近くで見つけたのが京都物産という問屋で乳バンドが置いてあった。まずは仕入れて売るとよく売れた。そこで塚本は「こんなもんうちで作ろうか」と言い出す。当時の乳バンドなるものは綿生地で作った胸あてのようなもの。誰が見ても作るのに難しいように見えなかった。
早速、塚本と西田は本社で作り出す。二人とも縫製のことなど何も分かっていなかったが、見よう見まねで胸当て部分を採寸し両サイドの長さと幅を決めていく。どうしてもサイズを決める上で試着が必要になる。そこで塚本の良江夫人をフィッティングのモデルにした。
「おい西田、良江を呼んでこい」、すると西田は「奥さん、大将が呼んでまっせ」。塚本は妻良江に対して「大事なことやからちょっと上だけでいいから脱いでや」と上半身を脱がせ採寸しはさみで切った紙をあてる。塚本が「合わんな」というと、西田が「そうでっしゃろ大きいでっしゃろ」と横から口を出す。恥ずかしがる良江に気を遣ったのか塚本は「西田あっちにいけ」という。それでも動かず見ていると塚本が「大きいな」、続いて西田が「大将、やっぱり大きいでしゃろ」と口出す。すると良江夫人は恥ずかしい素振りを見せ「いやー旦那はん、恥ずかしいわ」と下を向く。それを見ていた塚本は「何や西田、まだおったんか早うあっち行け」と言われ仕方なくその場を退散した。良江夫人の胸を見たのは社員の中で後にも先にも西田ひとりだけだった。
木原工場との出会い
さて、乳バンドらしきサンプルがようやくできた。今から見れば稚劣な物でしかないと推測されるが、それでも当人たちは必死で作った。だが、縫製して作ってくれるところがない。塚本が「どこか縫うとこないやろか」と思案しているときに出入りしている新聞配達のお兄ちゃんが「ミシンのある工場知ってまっせ」と紹介してくれた。それが室町通りにある木原工場だった。後に木原工場と和江商事は合併して成長していくことになるが、その最初の出会いは毎朝、和江商事に新聞を配達してくれた配達員だった。

木原光治郎社長が経営する木原工場は戦前から続く呉服商で、戦争中は軍需工場として軍服を縫製していた。戦後は繊維製品の統制を受けて厳しい時代をくぐり抜け、その頃はぺらぺらな人絹のズボン下などを作っていた。工場は3階建てで1階が事務所。2、3階がミシンのある縫製作業場。女工が100人近くいる京都中心部では大きな工場だった。塚本は木原社長を訪ねて日参した。直接には乳バンドを縫ってもらう仕事の依頼だが、それだけではなく、もっと大きな商売も考えていた。
カタログでブラジャー
ある時、仕事をしている西田のところに塚本がアメリカの分厚いシアーズローバックのカタログを持ってきた。そこには最新のモードがずらりと並んでおり、その中に下着が6ページも掲載してある。「西田、これ何て呼ぶんや」と見せられたブラジャーのカタログには商品名が英語で書いてあった。「お前は学校出たばっかしやろ、なら何というか分かるやろ」と西田に英語表記の商品名の発音を尋ねる。西田は「ブラシェール、ブラーシャー、いやブラジャーです」とブラジャーという発音で、その商品名を声に出した。すると塚本は「ブラジャーか、よし、ならこれで行こう」と言い出す。塚本は頭の中で木原工場で乳バンドだけでなく、もっと本格的な衣料品の生産を考えていた。
統制解除、自由経済へ
塚本幸一が木原工場に日参し何とか乳バンドを縫うところを捜していたのは単に乳バンドを縫うところが欲しいだけのことではなかった。そこには戦後の進駐軍(GHQ)による占領統治下から日本国が独立し統制経済から自由経済の時代が身近に迫ってきていることを肌で実感し、そのための準備を急いでいたからだ。
ある日塚本は松本産業との取引ができるようになったと大喜びしていた。半沢商店のコルセットを作るための織物生地は松本産業から仕入れていたことを突き止め、何とか分けてくないかと頼んでいたが、それがかなった。これで、半沢商店から仕入れているコルセットは自分でオリジナルを作れるようになる。
戦後配給制度は食料品と繊維製品がいちばん遅くまで続けられた。だが、昭和24年(1949年)4月GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジの立案した経済政策(ドッジライン)が始まり、それまで加熱していたインフレが収まり、景気後退局面に入るも、その一方で物価は安定してきた。これを受けて日本政府は繊維製品では昭和24年(1949年)5月に生糸及び絹関連製品の自由取引と自由価格を打ち出した。翌年の昭和25年(1950年)5月には毛、スフ製品の自由化、同年7月には綿糸の公定価格が廃止され、戦後の物資欠乏時代に国民に公平な配給を目的にした衣料品の配給制(衣料品切符制度)も最終的に昭和26年(1951年)4月26日をもって綿製品の統制が解除されたことで完全撤廃となった。これにより繊維製品の自由取引が成立し、いつでもどこでも作り売ることができるようになる。これは他面ではヤミ市の消滅であった。当時の商人は誰しも直感的に、これまでの数倍、いや何十倍の繊維製品市場ができることを想像し、新しいビジネスチャンス到来と期待した。西田清美が和江商事に入社した昭和26年(1951年)4月はそんな綿製品自由化が起こり戦後の市場経済が大きく変わろうとしていた時だった。ちなみに当時のブラジャーはキャラコの生地を使った綿製品だった(続)。

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