仕事遍歴 西田清美(昭和7年生)4 カドリールニシダ会長 和江商事本社を見てがっくり、嫌だ絶対に入らない

(前号から続く)3回目に中村と西田が会ったのは近江八幡駅だった。一緒に京都まで行き、和江商事の塚本幸一社長に会い面接するためだった。朝の駅で待ち合わせして一緒に京都に向かった。その当時の和江商事(現ワコール)本社は京都市中京区二条通東洞院東入にあり社長である塚本家の自宅兼事務所だった。着いた本社の前で中村が言った。「朝早いから、わしが裏から入って表のガギを開けるからちょうと待てててな・・」。中村は3階建ての煉瓦造りのりっぱな建物とその隣のしもた屋の間にある木戸から奥に入っていった。待ちながら西田はりっぱな煉瓦造りの家を見て、これが和江商事だと見て「思ったよりいい会社だな」と眺めた。だが、中村が出てきたのはしゃれた煉瓦造りの家ではなく、その隣のしもた屋だった。その瞬間「この会社は絶対に嫌だ。入らない」と強く思った。よく見ると、そのしもた屋の表に丸い電球カバーがあり和江商事と書いてある。西田が勘違いした隣のりっぱな煉瓦造りの家は耳鼻科の稲田病院だった。「2階に上がれ」と言われ上がっていった。1階が事務所で2階に上がると4畳半の部屋がありそこに座った。その左右にも部屋がある。座った4畳半の真下の部屋が塚本夫妻の寝室となっていた。1時間ほど待ったが塚本社長は出てこない。無理して恩師中村の顔を立ててきたのに・・と考えるとだんだん腹が立ってきた。
ワコールの創業者 塚本幸一と面会
そうこうしているうちに塚本幸一が朝帰りで戻ってきた。後で分かったが、当時の塚本は自然社という宗教団体に入信し、その京都教堂に夜通い修行して朝に帰ってくる生活をしていた。そういった生活がいつ頃から始まり、いつ頃まで続いたかは分からない。塚本は申年で西田より一回り上の年。2階に上がってくるなり「待たしたな、君が西田君か」、「君は京都が合わないそうだな」と話し、自分の軍隊時代の話しから朝までやっていた自然社の修行のことまで語り出した。身なりはびしっとしたブルーのダブルの背広を着て、眼光鋭く目の奥はきらっと光っていた。当時は学校の先生でも古くさい背広しか着ていない。つるし(既製服)などない時代で背広といえば仕立屋に行かないと作れない高級品だった。塚本の話は説得力があった。西田が驚いたのは自然社で学んでいる人生訓が標語になっており、それを見て話すのではなく、その標語すべてを頭に暗記して、まるで自分の経験談のように語る。塚本は八幡商業時代は弁論部で語りはうまかった。その姿や話しぶりにいたく驚き感動した西田は、その場ですぐにテーブルの横に出て「申し訳ありませんでした。この会社に入れさせてください」と両手をついて謝まり、就職をお願いした。すると塚本は「早とちりするな早計じゃないか。俺の話しを1時間ぐらい聞いた程度で、自分の一生を決めるようなやつはいらない。帰って1週間でも10日でももう一度考え、それでも入りたいならこい」。その話しに再び驚いた。
その場は分かりましたと引き下がったが1週間も待ってはいられなかった。すぐ翌日に京都に出向き「入れてください。お願いします」と懇願し了解を得た。
米付きで住み込み入社
ある日塚本から「京都に住み込み戸籍を入れて田舎の配給米を持ってきてくれないか」と言われた。すぐに「分かりました」と返事して、稲枝の自宅から京都の和江商事本社に戸籍を移し、配給米を受け取れるようにした。西田は米持ち込みで和江商事本社に住み込み入社することになる。当時の主食たる米は配給制。地域ごとに違うがひとり1日2合が基準で、他の食料品も配給制だった。徐々に戦後の食料不足も緩和されてきたとはいうものの米などの主食品は配給制が続いており貴重だった。だが実際には政府の配給米だけではとても家族の食料を満たすことはできない。塚本の家族も現金や金になる着物などを持ち、田舎の親戚や農家を訪ねて米と交換に尋ね歩いている。それでも足りないときはヤミ市で買うしかなかった。その頃の西田の実家は近江八幡駅から国鉄で3つめの稲枝駅近くに住んでいた。父親は地主で戦前から田んぼを買い足し小作人に世話をさせていた。戦後の農地改革でその小作人に土地を安く手放すこととなるが3反ほどは残り、戦前からの小作人に引き続き田んぼの世話をしてもらっていた。つまり、西田の家は非農家で配給を家族分受け取ることができたが、それ以外に小作人に世話してもらっている田んぼからの上納米があり、米には不自由なく生活することができた。塚本から「米を持ってきてくれないか」と打診を受けたときに、すぐに了解できたのは、そんな西田の家の米事情があった。
すでに期末試験も終わり、あとの高校3年生生活は卒業式のみとなる。それを塚本に話すと、「よし明日からこい」と言われ、卒業前の3月15日から和江商事で働き出した。3月末の八幡商業高校商業科の卒業式には、和江商事でもらった半月分の給料を友達に見せびらかし「俺はもう稼いでいるぞ」とばかりにはしゃいで見せた。ただ同級生から「おまえの入った会社は何の会社か」と聞かれると婦人用の装身具を扱う会社ということを恥ずかしくて言えず適用にごまかした。昭和26年4月西田清美18歳の仕事人生がここから始まった(続)。

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