仕事遍歴:西田清美(昭和7年生まれ)3 カドリールニシダ会長 兼松江商の推薦状をもらうが断念  和江商事に入社

昭和26年高校3年生で卒業の年になると誰でも就職の時期を迎える。それは西田も同じだった。かといって、どこでどんな仕事をしたいというような当てはない。ただ何となく、英語を話せるアメリカ人の多い東京に行きたい、英語を使えるような会社に入りたい、といった漠然としたものしかなかった。そこに、担任の木本寛治先生が「校長先生に兼松江商への推薦状を書いてもらったから」と言われた。木本先生は西田の英語力を評価し、将来仕事で得意の英語が活かされるかもしれないと校長に進言し推薦状を書いてもらっていた。当時の兼松江商は大阪船場の大手問屋で扱い品目も広く、日本国内だけでなく海外との輸出入も手がける大企業だった。西田は兼松江商への推薦状をもらったことで、すぐに就職内定がもらえることになった。これで一件落着、晴れて就職と思っていたところに、すでに大丸で働いていた友人が「止めろ」と言ってきた。その友人曰く「兼松江商と言えば大会社。京大、阪大卒の人間がごろごろいるような会社に高卒のおまえが行ってもせいぜい小間使いで終わりだ。喧嘩ばかりして偉そうなことばかりやっていたおまえが上司や大卒の先輩相手にぺこぺこできるわけがないだろう」と。

この昭和26年(1951年)の日本経済は前年の朝鮮戦争勃発による特需景気で活気を取り戻していた。この朝鮮特需が戦後日本の経済復興を成し遂げるキッカケとなったことは間違いない。だが、その一方でこの好景気が全国に行き渡り長く続いたわけではない。好景気に沸いたのは米軍用の軍需物資に関連する産業が中心で、国内向け産業全体には及んでいなかった。まして、日本政府が昭和24年(1949年)から実施したドッジラインといれれる金融引き締め政策は継続して実施されており、日本経済の本格的景気回復は池田内閣発足後の「所得倍増計画」で金融緩和政策への大胆な転換が実施される昭和30年(1955年)以降となる。当時は大卒といえども6割程度しか就職口がない時代だった。
就職内定を断る
そんな就職難の時代だが、西田は友人のアドバイスに動揺し、一度決めた就職内定を断念することにした。そして、推薦状の件でお世話になった木本先生の自宅を訪ね、事情を話し就職の件を断り謝った。「せっかく良い話しがまとまったのに惜しい」と再考を促されたが「自分のような人間は大会社では通用しません」と考えを変えなかった。それを横で聞いていたのが木本寛冶先生の妻富佐子で、彼女は和江商事(後のワコール)塚本幸一社長の妹だった。
面白い、連れてこい
後日、その話しを妹から聞いた塚本幸一は「面白い、うちに連れてこい」ということになる。そして、その役を背負って来たのが、八幡商業高校の教員を退職し和江商事に転職していた中村伊一だった。中村は塚本の八幡商業時代の同級生で昭和24年3月には教師を辞し和江商事に転職していた。彼は東京商大(後の一ツ橋大学)卒の秀才で八幡商業では「商業経済」の教師をしていた。同級生には後のワコール副社長となる川口郁夫もいた。この川口と中村は八幡商業時代同じ柔道部だった。学校で教鞭をとっていた頃の中村伊一先生は誰が付けたのか「豆炭」(マメタン)というあだ名で、西田を先頭にみんなで冷やかしていた。教師を辞め和江商事に入ったときは学校中で話題になり「マメタンが金儲けする会社に入った」と生徒みんなでふざけて騒いでいた。
中村伊一と3回面会
中村伊一は近江八幡から汽車で京都の和江商事まで通勤していた。その出勤前の朝に3回西田を訪ねてきた。1回目は校長室に呼ばれた。話を聞くと中村が京都で務めている和江商事という会社は装身具を扱う問屋で、いまは小さい会社だがこれからは大きくなると言うような話しをして「うちにこんか」と就職を打診してきた。当時の和江商事はブラジャーなどの婦人下着はまだ扱っていなかった。1回目の面接では「考えます」と答えたが、本人は話を聞いても乗り気にはなれなかった。理由は扱っている品物が婦人物の装身具で、英語と喧嘩でバンカラな高校生活を送っていた西田にとっては女物を扱う会社など女々しく感じて気に入らなかった。もうひとつは就職で京都に行くのがピンとこなかった。当時の住まいからすれば、京都への就職なら中村と同じように汽車通勤もできるぐらい近いし便利のように思うが本人はそうではなかった。喧嘩と英語に明け暮れた多感な西田青年はもっと都会で、英語が話せるようなところで、これまでと違う世界を経験したい。そんな思いを強くしていた。
10日ほどして、ふたたび中村が学校に来た。2回目の面接だった。会うとすぐに「私は東京に行きたい」と心境を話しはっきりと就職を断った。中村は「そりゃ東京に行けば、もっと立派で大きな会社はたくさんあるやろが、うちの会社もいまは小さいけど将来は大きくなる可能性はあるで?」。それでも西田は首を縦に振らなかった。続けて中村は「あかんか、俺もこうやって朝から何べんも来てるんや、俺の顔も立てて、うちの社長といっぺん会うだけでも会ってくれんか」。西田はこういった浪花節型の説得には弱い。「分かりました。一度京都の和江商事に伺い塚本社長とお会いしましょう」と受け入れ、後日、朝の近江八幡駅で待ち合わせして一緒に京都に行くことを約束した。しかし、この時点でも「和江商事には就職しない」という気持ちは変わっていなかった。八幡商業高校でお世話になった恩師からの誘いでもあり、失礼なことはできないので筋は通したいという思いだけで京都行きを承諾した。
中村伊一が西田清美を熱心に誘ったのは塚本幸一の指示だが、それだけではなかった。中村にも西田を有能だと思うことがあったからだ。それは八幡商業高校の教師をしているときのことだった。よく授業中生徒が騒いで集中できないことがある。そんなときに西田が教室で立ち上がり「おまえら静かにしろ」と声を張り上げると見事にびしっとその場を沈めた。中村の教えている教科は「商業経済」で、西田はその授業にはついて行けない生徒だが、クラス全体を統率するリーダーシップにはズバ抜けた力があり、その才能に一目置いていた。

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