仕事遍歴:西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長2・・英語が得意に、 賞讃された弁論大会

(上の画像は八幡商業高校3年生のとき、左から西村文治、西田清美、服部良夫。昭和25年ごろ)
通っていた滋賀県立八幡商業高等学校では数学、理科、社会、歴史など、どれひとつとっても分からない、できない科目だらけだが、英語だけは好きになり勉強した。戦後の英語教育は西田が八幡商業高校在学中に始まった。文部省はかなり早い段階から新制中学と高校に選択科目として英語授業の取り入れを進めていた。だが、実際には英語教材不足や教える教員が少ないなどで各都道府県ごと導入時期に違いがあった。そんな中で通っていた八幡商業高校に英語が選択科目として導入された。そのとき西田は「これだ!」と思った。他の教科は勉強しておらずついて行けないが、英語ならこれから「よーいドン」で他の同級生と同じスタートにたてる。勉強すれば負けることはないと考えたからだ。学校の帰りには英会話の本を持ち、大声を上げて英語を読み口にした。大きな声を出すので、近所の人に恥ずかしいと遠慮したのか、帰りの道はわざと人通りの少ない田んぼの真ん中のあぜ道を選んで通った。喧嘩好きだが、しゃいな一面もあった。
家に帰ると英会話放送で有名な平川唯一先生のNHKラジオ「カムカム英語」(昭和21年~26年まで)が流れ、毎週月曜から金曜の午後6時から15分間欠かさず聞いた。他にも米軍が流す進駐軍向けのラジオ放送は教科書英語にない実践会話でわくわくしながら聞いた。そこには英会話だけでなく、その放送から流れてくる音楽やアメリカ文化が近江八幡という田舎のガキ大将に、自分の知らないもっと大きな広い世界のあることを強く感じさせた。当時、平川唯一のNHKラジオ英語放送や進駐軍放送は単に英語を学び習得するだけに止まらない新しい価値観を日本人に与えた。初めて触れる民主主義という価値観やそれまでの日本人が知らなかった新しい生活文化がラジオを通して流れてきた。流れてくるアメリカのジャズやカントリ&ウエスタンなどの音楽、日本人がまだ見たことも使ったこともない洗濯機やテレビの話し、週末には家族で自家用車に乗りドライブに行くといった生活スタイルなどだ。それは、戦前から抑圧され枯渇していた日本人の精神風土に自由とあこがれを生み出した。当時の西田も単に英語を学んだというよりも多感な青年期にこれまでと全く違うアメリカという文化の洗礼を受けた。流れてくるジャズの音色とともに英語にますますのめり込み磨きがかかっていく。それは、西田のみならず、当時の多くの若者が同じだった。
戦後の第一次英語ブームを引き起こすキッカケを作ったとされるカムカム英語講師の平川唯一は戦前からNHK(日本放送協会)のアナウンサーだった。「カムカム英語」終了後はラジオ東京(現在のTBSラジオ)やニッポン放送で5年間英会話講座を続けたのち、1957年には太平洋テレビに転職し翻訳部長を経て副社長となった。1976年には戦後の英語教育に貢献したことで春の叙勲で勲五等双光旭日章を受賞した。その後、「みんなのカムカム英語」を出版するなど1993年に91歳で亡くなるまで英語の普及に尽くした。
英語の弁論大会
西田清美が高校3年の時に、八幡商業高校で県下の高校から優秀な弁論部員たちを集めた滋賀県高校生英語弁論大会が開かれた。そこで、西田が大会のチェアーマン(司会者)に選ばれることになる。当人は弁論部に所属していなかったが京大卒の英語教師から推薦された。英語にのめり込むように勉強した成果が認められた結果だった。弁論大会は外部からの審査員9人で構成された。その9人は近江八幡に本社のある医薬品メーカー近江兄弟社から7人と進駐軍から派遣された2人だった。この近江兄弟社から7人もの審査員が派遣されたことには訳があった。この会社の創業者はアメリカ人ウイリアムス・メレル・ヴォーリスでコロラドカレッジで建築を勉強したが所属するキリスト教団体から日本の近江八幡で英語教員を募集していることを聞き、明治38年(1905年)日本にキリスト教の布教を目的に来日し、旧八幡商業学校の英語教師に赴任した。その後、日本で教会、学校、病院、百貨店など歴史的建築物を数多く建てているほか、学校や病院経営から皮膚薬「メンソレータム」で知られる医薬品メーカー近江兄弟社を作り実業家としても成功した。現在の八幡商業高校は昭和15年11月に竣工したが、設計したのはメレル・ヴォーリス本人だった。ヴォーレスと八幡商業高校とは戦前から深いつながりがあった。この英語弁論大会は予定通り各校から選ばれた弁論部員たちが、それぞれの英会話力を活かしテーマに沿って演説した。そして、審査員の協議で大会優秀者が選任され、最後に審査員代表の総評が行われた。その中で、各弁論部員たちの成績評価だけでなくチェアーマン(司会者)の司会進行が分かりやすくスムーズだったと賞讃された。学校関係者など大勢の観客がいる中で西田の名前が出て、その英語力が評価されたことで、うれしさが込み上げてきた。と同時に、これまで学校で友人や家族に迷惑ばかりかけていた喧嘩師西田が本来の学業で評価を得ることができた初めての瞬間だった。西田が身につけた英語は単に学問とか会話力と言ったことに止まらず、その後の彼の仕事人生を切り開く大切な糧となっていく(続)。                                                              八幡商業高校は昭和15年11月竣工 建築設計はウイリアムス・メレル・ヴォーリス

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