仕事遍歴:西田清美(昭和7年生)カドリールニシダ会長(NO1)人生はブラジャーの型紙作り

これから掲載する西田清美氏の連載はマリリンタイムス(2017年1月1日号からは下着靴下経済新聞に題字変更)2015年(平成27年)3月1日号から2016年(平成28年)5月1日号までに掲載された連載を一部加筆修正して掲載するものです。

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カドリールニシダ(京都市本社)の西田清美(にしだきよみ)会長は自らの仕事を振り返り「私の人生はブラジャーの型紙作りだった」と話している。そこにはブラジャーを生涯の生業としてきた長年の風雪が人生訓のように込められている。喧嘩師と言われた近江八幡商業高校時代に始まり、就職した和江商事(後のワコール)でのブラジャーとの出会い。そして、退職後に転げ落ちていった窮乏人生とその後の復活成功劇。そこには、ブラジャーで生きた西田清美氏の仕事遍歴が映し出されている。カドリールニシダは前期(2014年3月期)で売上66億2600万円、前期比112・2%。これに子会社の「キッドブルー」や「ランジェリーク」、「セモアブライダル」などを販売するカドリールインターナショナル(東京本社)を加えるとグループで100億円を超えるファンデーション事業を展開している。今年は戦後70年、昭和に入り90年となる。カドリールニシダ会社創業(昭和43年1月)からは47年目、会社設立(昭和44年1月)から46年目。そして、西田清美氏が八幡商業高等学校卒業(昭和26年4月)し和江商事に入社してから64年目の仕事人生を迎える。平成23年(2011年)には長年のファンデーション事業への功労が評価され秋の叙勲で日本ボディファッション協会推薦により藍綬褒章を受章している。ブラジャーに生きた西田清美氏の「型紙作りの仕事人生」64年をたどる(本文中敬称略)。
名古屋の少年時代
西田清美は昭和7年(1932年)5月6日生まれ。兄弟姉妹9人中7番目で名古屋市西区で幼年期から少年期まで多感な子供時代を過ごしている。時代は第二次世界大戦真っ最中、徐々に南方での日本軍の敗退が鮮明になり、名古屋にも米軍の空襲がさし迫るようになる。名古屋市の記録によると第二次世界大戦中には63回の空襲があり、米軍爆撃機B25やB29が累計で2579機飛来し1万4500トンの爆弾を投下した。東京以上に空襲が激しかったと言われる名古屋市は三菱重工業名古屋発動機、愛知航空機、住友金属工業などの軍需産業が集積する工場地帯で、それを標的にした米軍の空襲はサイパン島陥落以降、整備された飛行場からの空爆が工業都市名古屋に集中した。とくに空襲が頻発したのは昭和20年3月から5月にかけてで4月の空襲では名古屋駅が、5月には名古屋城が焼け落ちた。空襲による死者は7858人、負傷者は1万375人、被災戸数は13万5416戸に及んだ。

そんな戦時下で西田清美は兄弟姉妹たちと近江八幡に縁故疎開し空襲の災難から逃れている。だが、名古屋の生家は空襲で焼け落ち残してきた家財すべてを失った。当時の戦争疎開は2種類あり、地縁血縁で知りあい方に避難する縁故疎開と学校や地域ごとに避難する集団疎開があった。西田清美は母親の兄がいた近江八幡に縁故疎開することになる。その疎開先の叔父の家は村一番の金持ちだった。そこで昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えた。
喧嘩師・・勉強はダメ
近江八幡で新制中学、高校と進学した西田は毎日が喧嘩に明け暮れる日々が続いた。今風に言えば、近所でも有名な悪ガキといったところ。自らも喧嘩では負けたことのないのが自慢で、まわりからは「喧嘩師」(けんかし)と言われた。この頃にはすでに、疎開先だった親戚の家を離れ、父親の家がある近江八幡駅から3つめの稲枝に移り、そこから八幡商業高校まで汽車通学していた。とにかく理不尽なことが嫌いで筋の通らないことを見たり聞いたりすると、その相手と必ず喧嘩になる。よく言えば、義に熱くバンカラ。悪く言えば、自尊心が強く見栄を張るタイプ。そのせいか些細なことでも喧嘩になることはしょっちゅうで、学校から母親と一緒に呼び出しを受けることも多く、親や学校に迷惑をかけることの多い高校生だった。一方で学業の方はどうかと言えば、それがさっぱりダメ。全く勉強のできない悪ガキだった。その勉学に劣る自分のコンプレックスが、よけいに喧嘩師に駆り立てていたのかもしれない。
停学処分
高校2年秋試験での事件では1週間の停学処分を受けている。試験を受けたがその答案用紙を白紙で出した。その理由は答えが全く分からなかったからだ。問題はその後の行動だった。答案用紙を白紙で出した後に、答えの書いてある教科書を手に取り、教室の後ろで「試験問題の何番の答えは○○だ」とたて続けに大声で叫んだ。驚いたのは教室で試験を受けている生徒と先生。その後の職員会議で1週間の停学処分がすんなり決まった。
話は前後するが、昭和18年、名古屋市西区押切小学校5年生の終わりに縁故疎開し、昭和19年4月に八幡小学校6年生に転入した。そして翌年には中学に当たる八幡商業学校に入学したが、その時も勉強嫌いは同じだった。勉強など興味もないししたこともない。入学試験は受けたが何も分からず名前だけ書いて試験用紙を提出した。結果は定員250人中244番目で合格となる。この時は驚きとショックが重なり打ちのめされたような気持ちになった。当然中学には入れないと思っていたからだ。本当に勉強は嫌いでしかたがなかった。その入学前後から戦局が一段と厳しくなり、男子は勉強よりも軍事訓練をするようになる。当人は勉強はともかく、運動は得意だったせいもあり体を動かすのは機敏で村田銃や三八銃をつかった軍事訓練は要領良くこなした(続)。

 

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