ブラジャーの戦後21半原/輸出、内需、中国生産/世界を放浪するブラジャー

(トップ画像は大正初期の半原)

昭和27年に神奈川県愛川町半原の小島繊維工業で始まったアメリカ向けブラジャー輸出は、その後、輸出規制から内需に転換。そして、海外生産へと移り国内で縫製業が生き残る環境が失われていく。戦後のブラジャーはコスト、品質、納期の最適条件を求めて世界を彷徨い平成に入ると中国が巨大な製造拠点としてブラジャーを飲み込んでいく。平成25年に全世界から輸入されたブラジャー(貿易統計)は1億1575万7804枚で、そのうちの81.7%、9465万9247枚が中国からの輸入となる。一方で国内生産は推定で500万枚を切る水準まで減少し、その減少傾向は今も歯止めがかかっていない。平成25年のブラジャー輸入量と推定国内生産量を合わせると約1億2075万枚が日本国内に供給されている。そのうちの95・8%が輸入品で、中でも最も多い中国製品は全体の78・3%となり、日本人女性の大半は中国製ブラジャーを身につけていることになる。昭和28年から昭和32年までの5年間がブラジャーの輸出黄金期。その後は輸出規制で徐々に減少し、昭和36年頃にはブラジャー輸出はほとんどなくなっていく。この昭和30年代は国内のブラジャー需要が急増し、日本人女性の日常生活の中にブラジャーが普及していくことで、半原や神奈川県のファンデーション縫製工場は国内向けに販路を転換し第二のブラジャー黄金期を作りあげた。その間には日本国内の賃金上昇や原材料コストの上昇から徐々に輸出競争力を失いブラジャー輸出大国日本の地位が低下した。同時に高津産業など一部の大手メーカーは国内工場への設備投資から台湾、韓国へ進出し海外で生産力を確保するという方向に転じていく。その昭和40年代~50年代までは、今とは違い台湾、韓国などの海外工場と日本国内工場で生産する製品は価格帯や品質、納期で住み分けを行い、両者が共存する状態がしばらく続いた。
これが、大きく動いたのは12億人の巨大な人口を抱える社会主義国中国の「改革開放」だった。平成に入り経済分野の自由化で資本主義に類似した制度を取り入れ、外国資本の投資を受け入れる国策に転じた。当時、日本人の20分の1以下の賃金はコスト面で大きな経済的魅力が生まれ、ブラジャー縫製産業を初めとする多くの加工製造業者が中国進出を開始した。それまでも香港経由で中国本土で下着を生産し日本輸入は行われていたが、それは限定的で品目や数量も限られていた。
表は神奈川県縫製品製造業者一覧表で、当時の神奈川県工業指導所の産地調査でまとめられたもの。この調査は平成2年のものだが、この頃が神奈川県内の愛川町、厚木市などでブラジャー縫製業者数が多かった最後の時期と言える。この一覧表から見ると、当時、ミシン100台以上を備えた大規模縫製事業者は愛川町のダッチェス中津工場、相模原の山内産業、同じく相模原の小泉産業、厚木市のダッチェス本工場、海老名市の碓井縫製工業所(現在の社名は株式会社縫い屋)などであった。他に厚木ナイロン工業などもファンデーション縫製工場を経営していたが県内に工場はなかった。そして、平成のバブル期を経て中国の価格、品質、納期のメリットが拡大し、国内縫製業者は徐々に廃業や倒産を繰り返してくことになる。
昭和34年に日本輸出スカーフ製品協同組合の職員として入社し、神奈川県輸出縫製品協同組合の業務を担い、現在は神奈川県繊維協会を務める中村邦雄氏は当時を振り返り話をしてくれた。「組合の視察でよく半原や厚木の高津工場に大勢で行った。いつ行っても髙津冨美夫社長は歓迎してくれた。ある時、工場内を視察していると髙津社長が一人の女工さんに急に声をかけた。驚いた女工さんに『お母さんの体の調子はどうだ。良くなったか』と聞いていた。それを見たときに従業員一人一人の家族のことまで心配しているのかと思い感動されられた。髙津冨美夫さんは懐の深い家族的で田舎の親父さんという感じだった。それに比べて二代目の髙津章さんは都会的で合理的な人という印象だった」。続いて小島繊維工業の小島民章について思い出を語る。「昭和40年頃に半原の小島民章さんの自宅に泥棒が入った。だが被害は全くなかった。しかし、この程度のことが地元神奈川新聞に出るほど小島さんは神奈川の経済界では実業家として名を馳せていた人だった」。

神奈川県繊維協会中村邦夫氏12中村邦雄氏
その小島繊維工業は昭和55年に縫製業を止めている。その後は、海老名ボウル、寒川ボウルなどのボーリング場経営、マンション経営、電子部品製造業、ビル賃貸業など事業を多角化し、現在の繊維事業は東京両国にあるファンデーションの資材商社小島繊維と半原にある神奈川レース工業だけとなる。
また、神奈川県で最大手で一時は日本全国でも有数のファンデーションメーカーだったダッチェスは2009年に三代目の吉川博志社長の時に倒産している。それに伴い昭和47年に髙津冨美夫が設立した神奈川県ボディファッション協会も事実上活動停止となった。神奈川県縫製事業者一覧表のなかで、現在までミシンなどの生産設備を持って縫製事業を行っているのは海老名市の碓井縫製工業所と半原にあるマルナ商事の2社のみとなる。昭和28年に半原の撚糸組合有志により設立された地元の金融機関半原信用組合は平成23年5月6日に半原信用組合から相愛信用組合に社名変更し6店舗で市民を対象にした地域金融機関として発展している。かつて繊維産地を支えてきた神奈川県繊維指導所と神奈川県工業試験所は平成7年に海老名市にできた神奈川県産業技術研究所に統合され、その歴史的役割を終えた。111年の歴史を持つ半原撚糸協同組合も平成25年12月に解散し上部団体の神奈川県撚糸工業組合に一本化された。
日本で初めてアメリカ向けブラジャー輸出を手がけた貿易会社コヤマトレーディングは、現在、二代目社長が横浜中華街にある本社ビルを活用して賃貸業で生業をたてている。昭和27年高津産業にブラジャー輸出を持ちかけた村上産業はその後、輸出の縮小で昭和35年に倒産した。日本のブラジャーはいまや中国が生産の中心となっている。その中国も人件費や資材調達コストの上昇に加えて日中との政治的軋轢もあり、生産地の中国離れが強まっている。最近では中国からベトナム、インドネシア、カンボジア、ミャンマーなど他のアジア諸国に生産拠点が移りだした。女性の美を支えるブラジャーだが、その行く先はコストと品質の最適地を探して世界中を放浪している(半原の連載はこれで終わります)。page001

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