ブラジャーの戦後20 半原  産地を地域で支えた行政、金融、業界団体

この神奈川県内のファンデーション事業を牽引していったのは厚木ナイロン工業とダッチェス(髙津冨美夫社長)だった。ダッチェスでは社内に企画研究室を設け次々と新しい製造技術を開発し昭和40年代に福島の棚倉工場、川俣工場など県外に工場を拡張し、昭和45年からは台湾、韓国など海外に進出した。同社の昭和39年から平成11年までの35年間に取得したファンデーション製造技術に関する特許数は112件に及ぶ。こういった技術力の蓄積に対して二代目社長高津章は平成5年に科学技術庁長官賞を受賞している。ダッチェスの平成11年(1999年)第50期決算は売上高84億円余りを計上しピーク時を迎えていた。当時、業界の売上高順位はワコールが圧倒的な1位だが、2位のトリンプが150億円ほどだった。株式会社ジャックローレの山本龍彦社長は当時ダッチェスの従業員だった。絶頂期を迎えた社内のようすを話してくれた。「当時はルシアンやいずみも抜いて業界3位になった。社内では次はトリンプを抜くか、といった勇ましい話しが出ていた」。ダッチェスは昭和40年代のシームレスブラの開発とその後の大ヒット。そして、自ら小売店への卸機能を持ったことで販路が量販店だけでなく、株式会社ミセランという百貨店専門店向け子会社も設立し販路はさらに拡大していく。昭和50年代に入るとワイヤー入りブラジャーが大ヒットするようになり、業界では生産が追いつかず、海外生産も急増したが、国内工場もラインが数ヶ月先まではいつも満杯状態が続いていた。この時代までは台湾、韓国、香港などの海外協力工場と国内工場の双方が一緒に成長している最後の時代だったと言える。ちなみに、昭和40年頃ののブラジャー小売価格は百貨店で1000円~1500円。ワコール、カネボウエレガンスのブラジャーが1000円前後でラバブルが1500円前後と国産品では一番高かった。一方で量販店は380円前後が中心価格だった。この昭和40年前後にはファンデーション市場が多様化していく。昭和40年(1965年)前後にはトリンプ(昭和39年日本進出)、半沢エレガンスを買収したカネボウエレガンス、レナウンリリー、ルシアン、片倉ハドソン、厚木ナイロン工業、グンゼ、内外編物など大手繊維メーカーが相次いでファンデーション事業に乗り出し、市場の競争も激化していく。
この時代に半原に目を向けると、半原信用組合、神奈川県繊維指導所、神奈川県工業試験所、そして、神奈川県ボディファッション協会などの組織が繊維事業者の後方支援に動いている。
半原商工信用組合(その後半原信用組合に名称変更)は昭和28年7月22日に設立され、半原撚糸組合が中心となり出資者311人と出資金315万円で設立された。当時、設備投資意欲旺盛な繊維事業者向け融資を積極的に行い、工場の設備拡張につながる金融業務を行い地域金融機関としての役割を担った。当時の半原には農協しか金融機関はなく、横浜銀行などの大手都市銀行などはなかった。
戦後の成長産業であったブラジャー縫製業者は、この半原信用組合の融資でミシンが購入でき縫製業への事業転換や新規参入ができるようになる。というのも、当時の縫製事業に欠かせないミシンは1台40万円ほどした。この40万円は当時の自家用車1台が買える価格で非常に高い買い物だった。半原や津久井などの撚糸業者や農家が縫製業を始めるには、このミシン購入資金を金融機関から融資してもらうことが必須条件だった。
横浜市緑区にあった神奈川県工業試験所は神奈川県全体の中小製造業者を対象にその技術支援、製品検査業務などを行っている。とくに、繊維産地を抱える神奈川県では繊維事業者を対象にその製造技術を支援する様々な検査機器から技師まで揃え産地をバックアップした。半原の高津産業(後のダッチェス)の日本初モールド成型機を開発したのも、この神奈川県工業試験所の協力支援がなくしてはありえなかった。
同じく県の行政機関で半原にあった神奈川県繊維工業指導所(旧神奈川県織物指導所)は元々撚糸業者を対象にした指導機関だが、戦後は縫製業など新しい繊維事業者を含めて経営や労務管理、技術革新の近代化を支えた。
また、高津産業の髙津冨美夫は昭和47年11月神奈川県ボディファッション協会を設立し厚木ナイロン工業も含めた神奈川県全域にわたるファンデーション(ブラジャー、ガードル、ボディスーツなど)関連業者のローカル組織として活動を開始した。この団体は経営、技術情報の交流から国民金融公庫横浜支店とタイアップした中小事業者向け融資制度を活用し縫製工場の設備増設を支援した。初代会長は髙津冨美夫が就任し昭和57年以降はダッチェス2代目社長の髙津章が継承している。戦後、半原から始まったブラジャー産地は、こういった地域の行政や金融機関、そして、業界団体の支えを通して設備投資と技術革新を進め近代産業として発展していった。(トップ画像は現在の愛川繊維会館で元の神奈川県繊維工業試験所半原支所)

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