ブラジャーの戦後19 半原/大量生産、大量消費の時代・神奈川県繊維工業指導所の調査

昭和30年代のブラジャー産業は前半が輸出時代、後半が内需産業へと大きく変貌を遂げていく。この時代にはアメリカ向け輸出を通してブラジャー縫製技術が日本に技術移転し大量生産、低コスト型の生産ノウハウが全国に広がり、これが、日本国内でブラジャーが大衆化する基礎的条件を作り上げた。そして、それを受け入れる流通も成長した。今日、量販店といわれるダイエー、長崎屋、イトーヨーカ堂、西友などで、それらの店は大量生産され価格の安いブラジャーを販売する受け皿となっていく。
一方では国内の消費力が上がってきたことで、各都市で百貨店だけでなく下着専門店が出現するようになる。石川県金沢市出身の中川義三は昭和28年に東京日本橋近くに店を構え輸入のストッキングを販売していたが昭和32年には銀座に移転しストッキングとファンデーションの専門店アンコールショップを開業した。ファンデーションは半沢エレガンスで、他に内外編物のスリップを販売した。昭和35年には赤羽1番街でタカラヤの平松シンさんが下着専門店を開業し、吉祥寺北口駅前ではミチルの堀内道三、浅草では中村商店の中村仙太郎が小物やストッキング販売と一緒にブラジャーやスリップを販売する専門店を開業させている。そして、そこに製品を供給する問屋(エトワール海渡、トーカ、リナ、丸菱総業、德田商店、ラブロン、トリンプ、シービーボンジョリー)などが台頭していく。

アンコールショップ 中川義三氏(株)アンコールショップ 中川義三社長

 

 

 

 

タカラヤ平松シン(有)タカラヤ 平松シン社長

 

 

 

 

この流れの中で昭和40年代から50年代にかけて半原や厚木周辺のファンデーション縫製工場は時代の波に乗って事業を拡大していくことになる。昭和8年に設立され半原にある神奈川県織物指導所は地元の撚糸業者を付加価値の高い織物事業への転換を推進するために作られたが、戦後は、名称を神奈川県繊維工業指導所に変更し、戦後生まれの縫製業者も含めて経営指導、支援していくことになる。この指導所は2年に一度の割合で神奈川県内の繊維業者を対象に産地実態調査を行っている。下着縫製業が調査対象となるのは昭和38年からで、平成7年に海老名市にある神奈川県産業技術研究所に統合されるまで平成4年を最後に計14回、28年間にわたり産地調査が行われた。その貴重な資料を見ていくと(表参照)神奈川県のボディファッション産業の変遷が見て取れる。
表の通り最初に調査した昭和38年には神奈川県内のブラジャーやガードル、ボディスーツなどファンデーションの縫製工場は16事業者、従業員771人、ミシン台数877台、生産数量76万6000枚で、生産金額は8億6923万円となっている。この調査内容を平成4年の最後まで見ていくと、神奈川県のボディファッション産業のピーク時を推定できる。それからすると事業者数、雇用者数、ミシン設備台数で最も多かったのが昭和53年となる。その年の事業者数40社、雇用者数914人で、ミシン台数が2070台。その後は県外への工場移設や台湾、韓国への海外発注が増えていくことで、生産額は増えるが地元神奈川県内の雇用者数や設備ミシン台数は減少していくことになる。生産数量で見ると平成2年の1617万2000枚がピークとなっている。ブラジャーは976万8000枚生産された。同年のファンデーション(ブラジャー、ガードル、ボディスーツなど)日本国内生産総量は4350万5000枚(繊維統計)で、神奈川県のファンデーション生産数量は日本国内全体の37・1%を占めていた。この調査には海老名市にある厚木ナイロン工業の生産量が入っていない。当時は同社もファンデーション事業の拡大成長期にあり、それを加味して推測すると神奈川県のファンデーション生産数量は国内生産全体の40%近い生産シェアーを持っていたと推定できる。

神奈川県BF精算額推移

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