ブラジャーの戦後 半原18 半原黄金期・スナック、映画館、ビリーヤード  集団就職で来た大竹募さん

昭和30年代から40年代の半原は神奈川県の北部にある寂れた山村というイメージとはかけ離れ、活況に満ちていた。メイン通りの国道54号線には工場の従業員相手にスナックが4軒、映画館が2軒、ビリーヤード1軒、他にも居酒屋などが建ち並び、夜には軒先に赤提灯がともり、工場で働く男衆が毎晩酒を酌み交わし千鳥足で歩いていた。現在は厚木市から相模原や津久井に抜けるバイパス道路は国道412号線が昭和50年に整備され、半原中心部を通る国道54号線沿いの交通量はめっきり減った。その通り沿いに隆盛を誇った繊維産地の面影はほとんどなくなっている。わずかに「撚糸組合前」というバスの停留所名が残されており、かつてここが撚糸業で栄えた繊維産地だったことを伝えている。
若い女工で溢れる半原
昭和30年代は田代の村から馬渡橋を渡り愛川トンネルを越えると、その両側に多くの撚糸や縫製工場などが林立し、日向橋までの1キロあまり、工場関係者や地元の人を相手にした日用品店、食堂、洋品店、食料品店などが軒を連ねていた。撚糸工場は日向橋に向かう道の右側に中津川が流れ、その川沿いに戦前から連なっていた。いまの半原は昼夜を問わず人通りはほとんどない。だが、当時は工場で働く若い女子縫製工が朝や夕方になると工場から湧き出すように通りを闊歩していた。取材中、半原で偶然出会った食堂の女将がよく飲みに来る地元の馴染み客の話しをしてくれた。それによると「昔は通りに出ると、仕事を終えた若い女が大勢歩いていた。日向橋に向かって歩いているうちに、すれ違う女の子に良くひやかしで声をかけた」と。それほど通りは工場で働く若い女性たちで溢れていた。

1 半原神社付近の通り 小島秀也撮影
この昭和30年代から40年代前半までは、地元の撚糸業者だけでなく細幅織物業者や縫製業者までほとんどの工場が活況に満ちた半原黄金時代だった。年1回の組合総会は遊興もかねて熱海の温泉で開くこともしばしば。その熱海の夜の世界でも半原の繊維業者は羽振りが良かった。現在の半原で各繊維組合を運営する財団法人愛川町繊維産業会の落合勝司専務理事も津久井出身で昭和33年に撚糸組合に入社し、長く半原の歴史を見続けてきたひとり。その落合勝司氏はかつての盛況ぶりを話してくれた。「熱海でも半原の繊維業者は信用があった。夜の二次会に繰り出し支払いは『付けにしてくれ』ということが熱海で通用した。半原の繊維関係なら取りっぱぐれがないと見られていたようだ」。実に景気の良い時代だった。

(財)繊維産業会落合勝司落合勝司氏
この昭和30年代は日本経済の高度成長時代の始まりでテレビ、冷蔵庫、洗濯機など「三種の神器」といわれた家電製品が家庭の中に標準装備されていき生活が豊かになりつつあった。反面、物価や人件費の高騰、労働力不足など戦後の統制時代とは全く違う新しい時代が到来した。
半原に「金の卵」が
この時期は半原の工場でも人手不足が深刻になり集団就職で東京にやってくる金の卵(中卒の就労者)を獲得するために撚糸組合中心に工場への人集めを行っている。落合勝司氏もそんな時代に組合の若手職員として青森県、宮城県、福島県などの東北地方から鹿児島県、沖縄までを対象に半原への就職斡旋の仕事をした 同組合の中卒者受け入れ事業は全国的にも早く昭和27年から開始し昭和35年頃まで続いた。その後は組合単位ではなく、個別企業ごとに続いた。組合の10年以上に及んだ中卒者の半原地区受け入れ人数は把握しているだけで約2500人、多い年には一度に100人を超えた年もあった。組合ではこういった若い従業員を対象に旅行などのレクレーション活動、勤続3年以上の従業員表彰などの活動を実施している。その3年以上の勤続表彰者は10年で800人にも達した。いまも、愛川町や厚木市、相模原市には東北出身の女性たちが多く住んでいる。彼女たちは青森や宮城県、福島県から集団就職で上京し、半原やその周辺の工場で働き、そこで結婚し所帯をもった人が多い。
半原撚糸協同組合の「百周年記念誌」には「集団就職から30年」を記録した新聞記事が記載されている。津軽海峡の先端に近い青森県北津軽郡小泊村の小泊中学を卒業した大竹募(旧姓久保田つのる)さんは当時15歳。同じ学校の同級生と一緒に昭和29年春の東京行き集団就職列車第1号に乗り込み上野駅に到着した。その後を少し長くなるが引用する。「募(つのる)ら小泊中学卒業した同級生9人は上野駅からさらに電車とバスを乗り継ぎ、夕方、丹沢のふもと、中津川の流れる神奈川県愛甲郡愛川町半原にたどり着いた。半原撚糸組合事務所で9人はそれぞれ工場に振り分けられた。募は自分の就職先の工場が普通の民家にしか見えないのが寂しかった。そこは、100平方㍍ほどの半地下式工場に2階建ての住宅が隣接していた。募ら2人は着くとすぐさま1階に住む経営者夫婦に呼ばれた。着古した紺の上着とズボンの作業服を渡され『給料はムダ使いするので、1年半たったらまとめて払う』といわれた。2階の6畳が寝室で先輩の女工2人と一緒だった。せんべい布団2枚に生糸の袋をつなぎ合わせて作った敷布団、翌朝4時半に起床のベルが鳴った。顔も洗わず出た工場で空のボビン(筒型糸巻き)を撚糸機から抜き取るのが最初の仕事だった。7時から麦の入った外米の朝食を30分で済ますと通いの女工4人も出勤してきた。生糸を機械にかけ切れた糸を結ぶ仕事は2回の休憩を挟んで夜8時まで続いた。緊張と疲れから募はいつの間にかボビンを入れる箱の中で居眠りしていた。毎日14時間の仕事よりもつらかったのは休みがないことだった。ようやく仕事に慣れて月に1、2回の休みがもらえたが、その休みの日もいつも通り起こされ、午前中は工場の掃除や廊下のぞうきん掛けをさせられた。冬は工場内に暖房がなかった。募はボビンの箱に乗り天井の電球で凍えた手を温めた。奥さんから前借りし切手やクリームを買う。同期生が訪ねてきても仕事中であれば会わせてもらえなかった。募(つのる)はそんな生活を実家に手紙で訴えたこともあった。だが、末尾には必ず『どんなことがっても辞めない』と書き添えた。来年のお盆には給料をもらって里帰りできるというその思いだけが、まだ16歳の募を支えた」。そして、大竹募さんらは1年半の仕事を終えて初めて故郷に帰郷することになる。引き続き引用する。
「神奈川県半原の撚糸工場でつらい勤めに耐えて1年5ヶ月目の昭和30年8月に大竹募(おおたけつのる)さんは故郷の北津軽郡小泊村に初めて帰郷した(中略)。帰郷前給料からの天引きで靴から帽子まで買いそろえてもらった募は都会の娘のように着飾っていた。白い帽子に花柄のワンピース。海辺で海藻を干していた母ツルは、そんな募の姿を見るなり涙を流した。海辺に近い実家で天引き後の1年半分の給料1万5000円の中から1万円を差し出すと、イカ釣り漁の船長をしていた父の倉蔵(くらぞう)が、その1万円が入っている給料袋をうやうやしく神棚に供えた」。
当時親元から離れて集団就職で半原に来た少女たちは中学卒業後の15歳前後。昭和30年代の半原や厚木周辺ではそんな少女たちが撚糸工場や縫製工場でたくさん働いていた。全国で初めて中卒の集団就職列車第1号を出したのは青森県で昭和29年のこと。それから毎年続き昭和50年まで続いた。この間に青森県から集団就職列車で上京した中卒の男女は7万人に及んだ。昭和39年(1964年)の集団就職ピーク時には全国の中卒者10万人が田舎から大都市周辺に向かった。この昭和39年は東京オリンピックが開催された年。上野駅に集団就職で上京した東北出身の「金の卵」たちを歌った井沢八郎の「ああ上野駅」が大ヒットした年でもあった。昭和30年代の半原では撚糸工場、細幅織物工場中心に「金の卵」たちが多く働いていた。それに比べブラジャーなどの縫製工場は比較的女性に人気があり近隣の村から来る女性たちで雇用が確保できた工場も多かった。

2 半原 宮本の街並み 小島秀也撮影2 半原 宮本の街並み 小島秀也撮影2 半原 宮本の街並み 小島秀也撮影2 半原 宮本の街並み 小島秀也撮影2 半原 宮本の街並み 小島秀也撮影

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