ブラジャーの戦後 半原17 輸出から内需へ イトーヨーカ堂、西友、長崎屋の台頭 

厚木市にあった高津縫製工場を視察にきた半沢商店の半沢優光社長と女優の高峰秀子さん

高津産業は自らデザイン室を作り、独自にパターンからサンプルまで作る工場機能を備えたことで販路が輸出だけでなく国内向けにも広がっていく。輸出を開始した昭和28年の翌年には国内向けメーカー東京CB商会(大熊常嗣社長)からの注文を受けブラジャーを生産した。輸出でスタートした高津産業だが、その縫製力やパターン力を買われ、当時の国内向けブラジャー、コルセットメーカーや問屋が次々と生産を依頼してきた。
そして、東京都中央区蛎殻町に本社があり、新宿区大久保に工場があった半沢商店(後の半沢エレガンス)からの注文も入るようになる。同社は大正期に創業した半沢国治商店がスタートで半沢国治が創業者、その二代目社長が半沢巌だが昭和30年に病死し、弟だった半沢優光が社長を引き継いだ。同社の大久保工場では昭和天皇の妻香淳皇后のブラジャーやコルセットを作り宮内庁に納めていた。他にも皇室関係者や日本映画界を代表する名女優のオーダーなども引き受けていた。所俊文は当時の半沢エレガンス大久保工場の工場長だった。その妻、所登久(昭和25年半沢商店入社)に聞くと「主人はまむしの手といわれたほど器用な人だった。頑固な職人で、女優の小暮実千代のブラジャー作りに苦労した話しをよくしていた」と話している。半沢商店は昭和33年には社名を半沢エレガンスに変えている。

所登久様トコロトク20140821所登久さん 2012年撮影
当時の半沢エレガンスは京都のワコールに対し東京を代表する大手ファンデーションメーカーで昭和30年代のブラジャー、ガードル市場は東の半沢エレガンスと西のワコールとの二大大手メーカーが百貨店市場で激突していた時代だった。 半沢優光はファンデーションの生産に精通し、時代の先端を行く新しいブラジャーやコルセットを次々に開発した。自らも物作りに精通しており、パターンがなくてもブラジャーが作れる日本に何人もいないその一人だったと当時を知る人は話す。 昭和34年に文化服装学園を卒業し半沢エレガンスにデザイナーとして入社した高村しずゑは次のように話す。「半沢社長は芸術家のような優れた人だった。できた製品はすべて自分で見て修正をデザイナーに細かく指示し、自分が納得できたものしか営業にまわさなかった」と。

高村しずゑさんS11.04.10生まれS34半沢エレ入社高村しずゑさん 2012年撮影
昭和35年には日本映画界のトップスターだった高峰秀子を起用したランジェリーブランド「高峰秀子創作ネグリジェ」を発売し話題を呼んだ。当時、半沢優光社長は高峰秀子を連れて高津産業厚木工場(厚木市田村町)を商談で訪れている。当時の高津産業は輸出が毎年減少する中で東京CB商会、半沢エレガンス、ラブロン、丸菱総業、D&M商会、德田商店などから注文が舞い込み工場はフル操業を続けていた。工場の労働時間は朝が7時30分から夕方の7時30分までが当たり前。それから女工が1、2時間の残業、男は出荷準備、ミシンの修理、翌日の生地の裁断に追われ深夜まで働くこともたびたびあった。夜遅くまで働く女工を寮まで自転車で送り届けるのも男の仕事。余談になるが、毎日自転車で送り届けているうちに、できてしまうカップルもいたようだ。

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ブラジャー輸出は昭和31年をピークに下降線を辿っていく。別表はブラジャーとブラウスの昭和31年から昭和40年までのアメリカ向け輸出枚数の統計。ブラジャーは昭和31年90万5000ダースあったが、昭和40年には僅か1万3000ダースまで減少した。この昭和30年代の神奈川産地は輸出で鍛えた生産力で、当時、国内で登場した量販店という新しい流通業への製品供給基地として、さらに成長していくことになる。
大量生産、低価格  輸出からスーパーに
昭和32年にはダイエーが大阪の千林で「主婦の店」をオープンさせた。前後して東京では北千住のイトーヨーカ堂や西友、長崎屋などが低価格、大量販売のスーパーストアーとして出現する。そこには、輸出で鍛えた縫製工場の大量生産で低価格のノウハウ活かされていくことになる。これは、滋賀県彦根のブラジャー産地も同じだった。昭和20年代~昭和30年代初頭までのブラジャーやコルセットを販売する小売業は百貨店が中心で、その他には東京で池袋のキンカ堂、上野の赤札堂、他に十字屋、扇屋などの大手洋品店が小売業のリーダー的存在だった。その他の小売店は青森県の三沢、東京の福生、神奈川の横浜、横須賀、広島の呉、長崎の佐世保など全国の米軍基地がある街の呉服店や洋品店、洋装店がブラジャーなどを扱う店に変わっていく。この米軍基地周辺の街でブラジャーがよく売れたのは、米軍相手に繁華街ができ、そこに集まる女性たちは米兵相手にいかがわしい仕事をしていた。そんな女性たちが多く集まるところはブラジャーがよく売れた。また、米軍高級将校の家族たちも基地周辺の米軍住宅に住んでいた。その妻や娘たちがブラジャーを買い求めた。
昭和31年にラバブルに入社し、その後、独立してシャインランジェリーを創業した小林英策氏は昭和30年代に全国の小売店を営業でまわった。「トランクにラバブルのブラジャーを入れて全国を歩いた。東京なら立川近くの福生や神奈川なら横浜、横須賀を、北は三沢、西は呉、舞鶴。九州は福岡、佐世保など米軍基地のあるところには兵士相手の女がたくさんいて、その女たちを相手にする店には飛び込みで営業したが喜んで仕入れてくれた。下着専門店などない時代だから、どんな店でも飛び込み営業が当たり前だった」と話している。

小林英策氏S121031生元シャインランジェリー社長の小林英作氏
この昭和30年代はブラジャーの輸出から内需への転換期だった。当時を振り返り高津産業2代目社長の髙津章は次のように話している。「輸出がだめになったが、へでもなかった。うちはパターンから起こしてメーカーや問屋にオリジナルを提案できたので注文が次々ととれた。工場はフル操業、いつも半年先まで仕事は埋まっていた」と。
高津産業は輸出ノウハウが内需に活かされていく。同社は半原の本工場のみならず中津工場、厚木工場に続いて厚木第2工場を新設し、さらに、昭和40年代になると福島県の棚倉工場、川俣工場と次々と工場の拡張を進めていく。この時期、神奈川県愛川町近辺のブラジャー産地は輸出ではなく内需中心に事業を起こす縫製工場が増えてくる。相模原では山内縫製や小泉産業、海老名市では碓井縫製工業所が設立された。この3社は昭和40年代から50年代にかけてはミシン100台以上の大型縫製工場として成長し神奈川を代表する縫製工場となる。
半原で堀禄助講演

代表取締役社長 堀禄助(故人)堀禄助氏
昭和37年2月22日半原にある神奈川県繊維工業指導所は技術講演会及び研究発表会を開催した。その日の業務報告を見ると、県北繊維工業振興策として「経済成長下における中小企業のあり方」の演題でシームレスストッキングの成功で時の人となっていた厚木ナイロン工業の堀禄助社長を講師に招き講演会を行った。当時の厚木ナイロン工業は株式を上場し、神奈川県をを代表する繊維大手製造業者になっていた。
この講演会に地元の高津産業からデザイン室の神崎磋利など若手数人が聴きにいった。当時の様子を次のように話す。
「講演を聴きに行ったらびっくりした。黒塗りの車から降りてきた堀禄助からは後光が差しているように見えた。話しを聞いたが、なんだか良く覚えていない。とにかく、話しのスケールだけが大きかった。軍隊の飛行機を借りて品物を運ぶとか、外国まで飛行機で品物を持って行くとか、何が何だがよく分からなかった」。堀禄助の講演は半原の田舎青年たちにはついて行けないスケール感のある話しだったようだ。だが、ここで、その後大ヒットとなる製品開発のヒントが生まれている。それは、講演中に堀禄助が何度も口にした「シームレス」という言葉。当時のブラジャーは綿ブロードの接ぎ布を縫い合わせてカップを作り製品にしていた。 講演会が終わり会社に戻ってきた高津産業デザイン室の若い仲間たちは先ほど聴いた堀禄助の話しを思い起こし「われわれもシームレスのブラジャーは作れないか」と話しが弾んでいく。その勢いそのままに、これを髙津冨美夫社長に話すと「よしやろう」と言うことになる。これが、シームレスブラジャー開発のキッカケだった。何とも単純としか言いようがないが、これが、時代の勢いでもあった。
このシームレスブラジャーを作るための金型成型機開発には神奈川県繊維工業試験所と永田精機の協力を得て2年以上の日数を費やしてカップ成型機日本第1号を開発した。その基本となるプレス機はクリーニング用プレス機をベースに自動車用タイヤ製造技術であるダイヤフラムロータリー方式を採用し、直径4㍍もあるモールドプレス機全自動1号機を完成させた。昭和39年にシームレスブラジャー特許出願を行い、翌年に特許を取得した。

高津産業プレス成型機国産第一号(昭和39年)
高津産業は日本で初めてのシームレスカップブラジャー開発に成功し、これによって業界で「シームレスブラの高津」という異名をとるようになる。そして、昭和40年代以降、高津産業は戦後第二次成長期を迎え、田舎の縫製工場から全国の小売業への直販機能を備えたアパレルメーカーダッチェスへと変わり全国区のメーカーに賭け上って行くことになる。当時、髙津冨美夫は開発費一千万円以上を投じている。ブラジャーで儲かっているとはいえ、当時の一千万円という投資額は中小企業ではかなり大きな負担であった。だが、髙津冨美夫も堀禄助のように、そして、デザイン室の若い従業員と同じように「シームレス」に何か新しい「未来」のようなものを感じていたのかもしれない(続)。

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