ブラジャーの戦後 半原16   ワンダラーブラウス(1ドルブラウス)   ブラジャー輸出規制

戦後の繊維産業が復興を成し遂げる過程で、昭和20年代後半から昭和30年代にかけて、アメリカ向け綿製品輸出が急増した。ブラジャーもそのひとつだが、その中で輸出時代を代表したのが「ワンダラーブラウス」と騒がれた綿ブラウスの輸出だった。これこそ、その後の日米貿易摩擦の原点とされ、日本政府の繊維産業政策の中で重要な位置を占めるようになる。改めて戦後のブラジャー輸出に大きな影響を与えた「ワンダラーブラウス」を振り返る。
この問題に関しては通商産業政策史第4巻、第5巻、横浜市が編纂した横浜市史通商編、輸縫連「二十周年記念誌」、神奈川県繊維工業指導所「五十周年記念誌」、京都大学経済学会論叢第157巻第4号「日本アパレル産業における輸出マーケティング1945ー1965(1)I・H・モヒウディン」など数多くの文献が残されている。なかでもI・H・モヒウディンの研究論文は、当時の日米貿易摩擦の問題を日本側からの視点ではなく、当時の世界経済の中でアメリカが置かれた立場から、その問題へのアプローチが行われており貴重な資料となっている。改めて「ワンダラーブラウス」(1ドルブラウス)の問題を読み取ると、その本質においては、ブラウスというアパレル品目ではなく綿製品めぐって日米間の利害が対立したことが浮かび上がってくる。当時のブラウス、シャツ、ブラジャー、ズボンなどはすべて綿製品だった。
発端はこうだ。日本では昭和27年頃から朝鮮特需の減少、巨額の貿易入超による赤字幅が拡大し、その対策として国内の景気対策と外貨獲得を目的に輸出が官民あげて奨励されていくようになる。昭和28年には米国向けに綿製スポーツシャツ2万4230着が輸出され、それまで米国向け綿製品の輸出実績がほとんどなかっただけに、不況にあえぐ国内の繊維業界は大きな期待をいだき、その後のブラウス輸出急増につながるきっかけを作った。

表1の通り昭和27年に半原や彦根から輸出されたブラジャーは5000ダース、ブラウスは1万6000ダーツにしか過ぎなかった。ブラジャーは翌年の昭和28年には前年の12・6倍の6万3000ダーツ、昭和29年には1・57倍の9万9000ダーツ、昭和30年には前年比2・7倍の27万1000ダーツ(325万2000本)まで拡大した。
続いて表2の昭和31年の米国向けブラジャー輸出は90万5000ダーツ、カナダなど他の諸国向け輸出を合わせると年間120万ダース(1440万本)の輸出を記録した。一方のブラウス輸出(表1)は昭和27年に1万6000ダーツしかないが、昭和28年には11万2000ダーツ、昭和29年には61万2000ダースで前年比5・46倍、昭和30年になると505万2000ダーツ(6062万4000枚)で前年比8・25倍と急増し、他の綿製品の中でも突出して増えている。
このブラウス輸入急増に危機感を抱いたのが米国繊維業界だった。その理由は日本から輸入されたブラウスはシアーズローバックやJCペニーといったアメリカの小売店で99セントという低価格で販売され売れ行きが急増した。そのことで、米国で製造された綿ブラウスの販売シェアーが脅かされると危惧したからだ。この99セントという超低価格の小売価格を当時のアメリカのマスコミが「ワンダラーブラウス」(1ドルブラウス)と報じたことで日米間の経済対立を象徴する社会的経済事件となる。 この低価格は日米の経済格差に原因があった。その理由は①当時、日本の縫製工の賃金は米国に比べ6分の1程度で低い。②主素材の綿生地価格も米国に比べ日本では安い価格で調達できた。③為替が1ドル360円で固定されていた。この人件費と綿生地コストの価格差、それに為替の優位性が米国市場で小売価格99㌣という破格の低プライス「ワンダラーブラウス」を生んだ。
これに対して米国の縫製業者や綿織物工場、綿紡績業者、それに綿花を栽培する農業団体からも非難の声が上がる。その急先鋒は全米労働者組合で、いち早く輸入反対の声を上げ「日本の安いブラウスが米国人労働者の雇用を奪う」という主張が展開された。その主張は米国議会の共和党、民主党議員へのロビー活動として活発化し、日本からブラウスなど綿製品の輸入制限を要求する政治運動として展開されるようになる。この事件は当時の新聞、雑誌などで連日報道されアメリカ社会を揺るがす事件となっていく。ただし、この問題は単にブラウスだけでなく綿製品であるスポーツシャツ、ワイシャツ、ジャンバー、パンツ、パジャマ、ブラジャーなど米国輸出が急増していた綿製品全体に及んだ。
ブラウス輸出のピーク時は昭和31年(1956年)11月で、その僅か1ヶ月間に約60万ダース(720万枚)が米国に輸出され、続く12月には105万ダース(1260万枚)が輸出された。それが、翌年(昭和32年)には売れ残り、小売店でブラウス1枚60セントのディスカウント価格で小売された。これが、米国では日本メーカーによるダンピングと判断され、日本からの綿製品輸入反対を求める社会運動が激しくなる。とくに、綿花作付面積の大きい南部のサウスカロライナ州とアラバナ州政府は日本製品への差別的な州法を通過させ、昭和31年(1956年)の大統領選挙で日本製綿製品の輸入制限を大統領選挙の公約とすることを共和党や民主党に呼びかけるなど激しい反対運動を展開した。

表3

表3は昭和31年当時の輸出縫製品工業組合の都道府県別組合員数。当時、全国にあった輸出専用縫製工場は198あり、そのうち一番多いのが大阪府の34工場、2位が岡山県の27工場、3位が神奈川県の20工場となる。これが、昭和40年の輸出向けブラウス縫製工場数の統計資料によると神奈川県は大阪府、石川県に次いで3位で114のブラウス縫製工場があった。昭和30年代の神奈川県はブラジャーだけでなく横浜市を中心にミシン10台~30台程度の小規模な輸出中心の縫製工場が集中する産地を形成していた。

マルタ(株)田代隆会長S8年生202.11.01

マルタ(株) 田代隆会長(昭和8年生・2012年11月1日撮影)

一昨年まで横浜市でガードルやブラジャーの縫製工場を経営していたマルタ株式会社の田代会長は昭和30年代を回顧して次のように語った。「横浜周辺には輸出向けのブラウスを縫う小さな工場がたくさんあった。午前中にそのブラウス工場を回り、できた製品を分けてもらいブラジャーと一緒に風呂敷いっぱい担いで国電に乗り、浅草橋で降りて問屋をまわり売って歩いた」と話す。
日本からブラウスなど綿製品の輸出急増と、それへの反対運動を受けて米国政府は日本側に品目ごとに輸出を制限し、その量を示すように「自主規制措置」を求めてきた。これが、日米貿易摩擦の出発点になる。これを受けて日本側の窓口として通産省の指導を受けた業界団体として昭和31年に日本輸出縫製品工業組合が結成され、同年には神奈川県輸出縫製品工業組合も設立された。その後、神奈川県輸出縫製品工業組合理事長にはブラジャー輸出に貢献した小山善次郎が就任した。同氏は輸出振興に尽力を注いだ功労が認められ昭和46年に同団体の推薦で藍綬褒章を受章している。

表4
昭和32年1月1日より実施された日本側の対米輸出自主規制措置は表5の通り。ブラウスは150万ダーツ、ブラジャーは60万ダーツに輸出枠が決まる。しかし、輸出規制は当初、対米向けのみでカナダや南米、ヨーロッパ、アジア諸国などへの輸出は規制枠に入っていなかった。一部にはカナダなど第三国経由でアメリカへ輸出するなどの抜け道輸出もあり一挙に減少することはなかったものの徐々に下降線をたどる。そして、次の対立品目がウール、化合繊などに焦点が移りながら日米繊維交渉は昭和40年代まで続いていくことになる。だが、ブラジャー輸出は昭和36年頃を境に大幅に減少した。国内人件費の高騰や香港、韓国、台湾のアメリカ輸出攻勢で国際競争力を徐々に失ってしまう。もうひとつ、国内需要の高まりに輸出縫製業者が国内販売に販路を切り換えいった。日米繊維交渉はその後も続き、最終的には、沖縄返還協定が結ばれた昭和46年(1971年)の日米繊維協定締結まで続くことになる(続)。

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