ブラジャーの戦後 半原1 小山善次郎がもたらしたブラジャー輸出産業

大正初期20121109G半原の大正時代の水車

ブラジャーの戦後
半原1
小山善次郎がもたらしたブラジャー輸出産業
ブラジャーが工業製品として産業化したのは終戦後のこと。それを後押ししたのはアメリカ向け輸出だった。横浜にあった貿易会社コヤマトレーディング(小山善次郎社長)がアメリカのファンデーションメーカー(エクスキュージット・フォーム社)から受注したブラジャーを滋賀県彦根市の白洋物産や神奈川県愛甲郡愛川町半原の小島繊維工業に発注したのが昭和26年12月で、その翌年(昭和27年)からブラジャー輸出がスタートした。
大正から昭和にかけて日本にもブラジャーの製造業者はわずかにいた。だが、それは明治政府の日本近代化政策の中で洋装文化を取り入れ、世界の一流国家を目指した中で女性のごく一部の特権階級が着用する衣装に過ぎなかった。従って、その製品(ブラジャー)を作る工程は近代産業型の工業製品規格などなく、家内工業の水準に止まっていた。
滋賀県彦根市では現在もひこね繊維協同組合(川瀬友康理事長)のもと組合員15社がファンデーション事業を続けながら、地元彦根市の小学校にゲストティーチャー制度を活用して縫製指導員を派遣している。子供たちに縫製を教える授業を組合事業として実施し、ファンデーション産地彦根の歴史を今に伝えている。
だが、半原で発祥した愛川町のブラジャー、ガードル産地の歴史は業界人のみならず地元の愛川町や厚木市、相模原市でもその歴史を知る人が少なくなった。神奈川県工業試験所50周年史によると最盛期の平成4年(1990年)には生産額137億2864万円、縫製事業者数36社、従業員数740人の産業として存在していた。
だが、高津産業(ダッチェス)の創業者高津富美夫が作った神奈川ボディファッション協会は2009年に事実上活動停止した。現在、半原の愛川繊維会館(レインボープラザ)内に愛川縫製品協会事務所があり数社が加盟しているが組合事業として目立つ動きはない。2月7日には高津産業2代目社長(元ダッチェス社長)高津章氏(昭和8年生)も相模原市の病院で81年の生涯を終えた。
戦後の一時期、丹沢山脈に連なる山間の村半原にブラジャー縫製産地があった。改めてその足跡を振り返る。

半原の風景平成14年20121109半原の部落

 

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