ブラジャーの戦後 半原14  高津産業創業昭和14年

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08-09%e9%ab%98%e6%b4%a5%e5%86%a8%e7%be%8e%e5%a4%ab高津冨美夫氏

高津産業の創業者高津冨美夫は明治40年2月1日群馬県多野郡美九里村の農家の次男に産まれる。大正12年3月に美九里尋常高等小学校を卒業後、群馬県立蚕業試験所教師過程に進み大正13年3月に修了した。縁あって神奈川県愛川町半原の高津家に養子として入籍し、同時に県の出先機関である神奈川県撚糸協同組合書記に就き昭和5年から10年までの5年の間に同組合の書記長に昇進した。この間に千代子夫人と結婚し、昭和8年には長男章(二代目社長)が誕生している。 その後、昭和14年に独立し海軍のパラシュート用コード撚糸事業を創業、昭和18年にはパラシュートや海軍特攻隊服などの縫製品を生産する高津縫製工業を設立、戦後の昭和24年に高津産業に社名変更している。
この戦前、戦後のこの一時期は高津冨美夫にとって統制経済下で厳しい企業経営を余儀なくされた時代だった。当時を振り返り二代目社長高津章は次のように述べている。「あの時は高津家にとって最も困難であり決断を迫られた時でもあった」と。高津冨美夫は昭和14年に独立し撚糸業を創業した。その後、昭和18年に縫製業に転換したが、それから戦後のブラジャーに出会うまで人生最大の苦境に遭遇している。当時の時代背景は半原撚糸協同組合「百周年記念誌」を始め、繊維産業の戦前戦後を記録した様々な文献に出てくる。
少し歴史をひもとく。昭和12年7月7日中国北京市郊外にある盧溝橋付近で中国国民党軍と日本軍が軍事衝突し日中全面戦争に突入した。翌年の4月には「国民総動員法」が公布される。この法律により物資、生産、流通、消費、物価、資本、金融まで様々な規制がかかるようになる。戦前の繊維産業は国の基幹産業として重要視されてきたが、戦時中は一部の軍需用を除いて民需用は戦争遂行上不急不要産業として軽視され企業整備令の対象となり衰退を余儀なくされた。
昭和13年には半原でも軍需用絹縫糸、電線被履用絹糸など軍需用資材の生産が始まり、民需向け撚糸業に制限がかかり民間企業や団体の活動も制限され戦時体制色が強まっていく。昭和17年には国の企業整備令に基づき民間企業を軍需優先に再編するために大規模な集約化が進められていく。その年の11月に半原では民需用の自由な事業は認められなくなり、撚糸業者は設備5千錘以上の撚糸会社13社に統合集約されることになる。これまで半原で撚糸業を営んできた零細業者の多くは統合で設備を供出し廃業に追い込まれた。当時は、日本全国で繊維業者のみならず中小製造業者の多くが企業整備令で廃業に追い込まれている。戦争により海外からの鉄、ニッケルなど金属輸入がストップした日本は兵器製造のために国内から金属類を回収するために昭和16年「金属類回収令」を公布した。当初はあくまで任意とされたが、戦局が厳しくなった昭和18年8月の「金属回収令勅令第667号」は強制力を持つようになる。家庭内で使う鍋や釜類だけでなく企業整備令で不要となった金属機械設備も国に供出することが強要されるようになる。

高津冨美夫が縫製業に転じた昭和18年当時はそんな時代が横たわっていた。小規模撚糸業者でしかない高津冨美夫の工場は金属機械を国に供出し、新たに海軍指定の縫製工場になることで生き残りを選んだ。その後は海軍のパラシュートや海軍特攻隊服の縫製工場となり高津縫製工業を設立している。縫製業への事業転換は決して新しい事業への挑戦でもなければ、積極的に選んだ道でもなかった。日増しに戦禍が厳しくなる中で家族や従業員の生活を守るために悩んだ末の決断だった。その後、高津冨美夫は県の仕事をした経験を活かし、海軍指定工場となった半原の工場主6名で横須賀海軍鎮守府の要請に基づき昭和19年に愛川布帛製品製造協同組合を作り、その書記に就任した。その際に海軍がフィリピン攻略時に戦利品として持ち帰った足踏式アメリカ製シンガーミシン50台が分け与えられる。この中古ミシンが戦後の縫製事業に活かされていくとは、当時、誰も予想していなかった。
高津冨美夫は戦前から戦後にかけて県や愛川町の地場産業に携わる公職をたびたび行っている。戦後の昭和30年には愛川町議会議員選挙に出馬、昭和41年11月まで3期連続して町議会議員となり、3期目は愛川町議会議長まで務めている。昭和41年には愛川町町長選挙に出馬するも落選し、それを期に政治から身を引いた。また、昭和47年には神奈川県ボディファッション協会を設立し戦後にできたブラジャーやガードルなど縫製業者の技術交流を通して地場産業の発展に努めている。

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