ブラジャーの戦後 半原12 サンプル作りで苦労、米陸軍婦人制服用ブラジャーパターンを参考に

(昭和30年頃の高津半原工場で撮影・高津冨美夫(右から3番目)、高津章(左から3年目、右から4人目がCB商会の大熊常嗣社長で後ろの看板には「CB半原工場」が見えるが、これは、大熊社長の高津半原工場来訪に合わせて急きょ作って歓迎した看板。当時の高津産業はCB商会の下請けもやっていた)

そこにブラジャーサンプル作りが始まる。高津冨美夫と神崎嵯利はすでにブラジャー縫製で先行していた小島繊維工業の小島民章を訪ね、そこで使われているブラジャーの図面(品番711)を写させてもらい、金具や資材もすべて独自に作るようにした。フック・アイなどは学生服の詰め襟に使うホックを利用して作った。高津章は当時のことを振り返り「この最初の苦労が後で活きていった」と話す。
この最初の苦労とはコヤマトレーディングと違い村上産業はアメリカで営業するためのサンプル作りが目的で、サンプルのブラジャー1本以外、縫製仕様書や絵型など何もない状態で発注していた。それで、サンプル作りは高津産業にすべて任し、図面から資材まで独自に作らざるを得ない状況から始めた。そのことは、与えられた図面で縫製するだけではなく、バイヤーの要求に合わせてパターンから資材まで自ら作ることができる技術を最初から習得するとこになる。
最初のサンプルで受注したブラジャーはそのバイヤーのイニシャルをとり「K・Sブラ」と名付けた。高津章は「神崎の書いた絵はアメリカ人バイヤーにすごく気に入ってもらった。心配していた商談も上手くいき次々と注文が入った」と振り返る。ブラジャーは昭和28年には村上産業を通してアメリカ向けに輸出された。サンプル作りで重視したのはブラジャーパターン。参考にしたのはアメリカ陸軍婦人部隊の制服用に作られたもので、アメリカ人女性数千人の体を計測し規格化されていた。

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当時の日本国内向けファンデーションメーカーは手探り状態でブラジャーやコルセットを作っていた。自分の妻や友人に頼み込み体を採寸したり、闇市や進駐軍の売店で手に入れたサンプルをもとに作り、いわばオーダーメイドのようなもので、大量生産で誰にでも着用できるような工業製品とは無縁な代物だった。従ってこの当時の国内向けブラジャーは工場によってサイズが違い、極端に言えば、同じ工場でも縫製した人や裁断した生地の寸法でサイズが微妙に違いが出ることなど当たり前のように起きていた。それでも、そんな商品が日本の百貨店で堂々と売られ売れていたと言うから、当時のブラジャー品質基準が何なのか、作る人や売る人、それに、着用した消費者も分かっていない時代だった。
高津産業では輸出用のサイズは「32AA」、国内向けには「80A」とインチで表記した。その後、メートル法で表記するようになる。輸出で自信を持った高津冨美夫は昭和28年には当時としては斬新な「デザイン室」を社内に設けて、パターンからサンプルまでの開発専門部署を作った。といってもスタッフは神崎嵯利とミシンでサンプルを縫製する女性2人だけ。当時は女工1人でサンプルを1日10枚程度は作れた。2人を遊ばせないためにも毎日新しいパターンを作り続けるのがひと苦労だった。神崎嵯利は「高津冨美夫に惚れた。自分の好きなことをやらせてくれた」と回顧する。好きな絵を描く仕事をブラジャーのパターンやデザイン画で実現でき「デザイン室」という自分の居場所ができたことにやりがいを感じた。高津章もそのデザイン画を評価している。「神崎の絵はバイヤーにすぐに気に入ってもらい注文がどんどんとれた」とスタート時の神崎嵯利の活躍を評価している。
高津産業のブラジャー輸出はゼロからのスタートが実り、新しくパターンを起こし製品を作り提案するという縫製工場の企画提案型ビジネススタイルをいつの間にか作り上げていた。作られたサンプルは村上産業の村上勉の営業力で注文をとった。アメリカのファンデーションメーカーメイドンフォームやバニティフェアの注文が次々と入る。当時のブラジャー縫製の原価計算は品番ごとに縫製工程数と女工一人が1日に何枚できるか計算して加工賃を割り出し見積もりを作った。ブラジャー加工賃は1枚あたり50円、女工1日の日給が100円、残業代込みで200円。一人平均で25枚はできたので、一日一人が1250円を稼ぎだす。それに対してコストの人件費は1日200円。素人でも分かるほどボロ儲けする商売だった。同じく愛川町三益で縫製工場を経営していた元株式会社サミーファンデーションの髙木博氏は「ブラジャーは儲かった。うちは女の子を集団就職で青森から集めた。3年もやると、新しい土地と工場ができるほど儲かる商売だった」と懐かしく話す。
表1は日本輸出縫製品工業組合(輸縫連)の昭和31年当時のブラジャー輸出工場の実態を集計したもの。当時ブラジャー輸出縫製工場は全国に107工場。ミシン3369台、従業員4926人、平均月給が8121円で、その工場の大半が従業員30人以下の小規模工場だった。これは、輸縫連がまとめた統計資料だが、半原では女工一人の日給は100円で、残業代込みで200円、月給5000円前後が相場だった。昭和20年代後半から昭和30年前後まではミシン100台以上を備えたブラジャーの大規模縫製工場は半原、厚木周辺で小島繊維工業の子会社厚木縫製と高津産業の2社のみ。他はミシン10~20台程度の農家を改造した小さな縫製工場ばかりで、津久井や相模原周辺の農家の娘を集めて営んでいた(続)。

 

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