ブラジャーの戦後 半原11/高津産業株式会社/ブラジャー加工賃50円

(画像は当時あった半原の石小屋橋・昭和30年ごろ・右が村上産業の村上勉、その隣が外国からきたバイヤー)

半原で戦後のブラジャー黄金期を飾ったもう一社が高津産業株式会社(高津冨美夫社長)だった。同社は昭和28年からブラジャー輸出を始めているが、キッカケとなったのは昭和27年に横浜にあった貿易会社村上産業株式会社の村上勉造社長との出会いだ。当時、村上産業は横浜でスカーフ輸出を行っていたが、同じ輸出業者のコヤマトレーディングのブラジャー輸出の話しやアメリカ在住経験のある息子で営業を担当していた村上勉の話しからアメリカ向けブラジャー輸出を模索していた。一方の高津産業も戦後の混乱期から縫製事業で再興しシャツやブラウス縫製にも手を出したが上手く行かない日々が続いていた。そんな両者がブラジャー輸出で手を組むことになる。
本年(2013年)2月7日に他界された高津産業(ダッチェス)の高津章二代目社長は生前本紙の取材に対して当時のことを次のように語っていた。「村上産業から見本を作ってくれと言われてアメリカ製ブラジャーサンプルを渡されたが、最初はどんな風に作ればよいか全く分からなかった」。当時の高津産業は高津冨美夫社長や千代子夫人など家族中心の小さな縫製会社で、誰もブラジャーの知識や作り方など知らなかった。
村上産業のサンプル制作依頼はコヤマトレーディングのように最初からアメリカ人バイヤーから発注を受けてスタートした事業ではない。あくまで営業用のサンプルを日本で作りアメリカのファンデーションメーカーにセールスを行い注文をとる。そのためのサンプル作りが最初の目的だった。
その昭和27年に17歳の絵描きを志望する青年が高津産業に入社した。それが、現在の株式会社MIC相談役神崎磋利(かんざきさとし)で元ダッチェス専務取締役だ。彼は半原の隣部落、田代の出身で地元の田代中学卒業後2年間自動車整備の専門学校に通い、その後は画家を志し浅草にある映画の看板屋に勤め独学で絵を勉強していた。

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その神崎磋利を高津産業に入れたのは、田代中学時代の恩師で大矢勲校長先生だった。「きちんとした役場の仕事を紹介するから、それまでは半原の高津産業が人手が欲しいと言っているから、とりあえずそこに行っていろ」と言われてアルバイトで高津産業に入社した。
当時の高津産業は高津冨美夫社長自らミシンを踏み、すでに入社していた息子の高津章は大きな体を活かして生地の裁断や雑用係をやるなど、家族ぐるみで営む小さな縫製工場だった。

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