姉を手伝い大阪まで営業に/仕事遍歴山口信子(昭和3年生)株式会社アイオイ商会 代表取締役社長NO6

(昭和30年頃の豊橋市花中町の自宅)                                 中古長靴下は東京や神戸にあった輸入専門の貿易会社から仕入するために山口信子は母けんとふたりで何度も仕入先と往復した。1トン10万円で中古長靴下を買い豊橋の工場まで送ってもらう。するとドンゴロス(麻袋)にぎっしり詰まった中古長靴下が山のように送られてくる。
途中、乗り継ぎで大阪駅で降り駅前に出て座り、おにぎりを食べていると、いつの間にか、そのおにぎりに引き寄せられて大勢の汚い格好をした浮浪者が集まってくる。信子はいまでもその光景が目に焼き付いて忘れられない。当時は食べるものが少なく腹を減らした日本人が駅周辺に大勢いた。駅だけでなくホームも列車の中も汚れた格好をした人が大勢いた。
儲かった中古ナイロン長靴下                                        その中古ナイロン長靴下の販売は異常とも思えるほどに儲かる商売だった。再生したナイロン長靴下が1足1000円で売れたからだ。当時の女子事務員の給料が月3000円の時代。その高級な中古長靴下を買うために女性たちは働いていた、と語っても過言ではない社会現象が起こっていた。
当時は食べるものではバナナが最高級品。お腹いっぱいバナナを食べたいと誰もが思っていた時代に、そのバナナよりも高いのがナイロン中古長靴下だった。昭和20年代まではストッキングという名称は普遍化しておらず、すべて長靴下と呼ばれていた。
中古ナイロン長靴下が儲かる理由はもうひとつあった。それは、この長靴下ならぬ中古長靴下が高価な割にすぐに伝線して破れてしまう品物だったということ。つまり高価な割には商品寿命が短く、すぐに伝線してしまう。そうであるが故に当時の女性たちは1足買った長靴下は超高級品で普段に履くものではなく、特別な日のおしゃれのために履く長靴下として使われた。当時の雑誌「暮らしの手帖」にはその当時の女性たちがいかに長靴下を大事に扱っていたかを誌面で紹介している。その誌面には「若い女性たちはスカートの下に太股までの長靴下を履いてコルセットとガーターベルトかあるいはゴムでずれないように留めていた」。パンティ部とストッキングが一体となるパンティストッキングの登場は昭和43年以降のこと。
豊橋の山口貞治郎の工場で再生された中古ナイロン長靴下は商標が「クラウン」でセロファンに包んですぐに姉山口つくしのいる名古屋の営業所に運ばれた。当時の卸先は百貨店と露天商がほとんど。名古屋の中村呉服店(オリエンタル中村)、丸栄、近鉄百貨店、それに浜松の松菱、四日市近鉄百貨店から名古屋市内広小路付近の露天商など。
そこに三育学院大学を卒業して1年ほど過ぎたころに山口信子が加わった。商売が好きだった信子は、姉を手伝いながら販路を京都や大阪までひとりで開拓していく。大阪で最初に飛び込みセールスしたのは梅田界隈の露天商とどぶ池周辺の問屋や小売店。当時は大阪の梅田界隈や天王寺駅近くの木賃宿に泊まり営業に歩いた。
アイオイ商会は平成22年からバイキングレストラン事業を新たに開始し現在4店舗を展開している。そのうちの1店舗が天王寺ハルカス13階にあるレストラン「京都北山ダイニング」。信子はその店に行くたびに窓から下を眺め、天王寺界隈の現在と自分が木賃宿に泊まって営業した60年前を思い出す。するとなぜか自然と涙が溢れ出てくる。20代後半の女が一人で大阪に来て商売をするのは、当時では珍しかった。大阪にはセールスで販売先を開拓するために頻繁に訪れたが、それが縁で大阪に商売の根を降ろすことになる。
中古ナイロン長靴下は昭和24年頃から昭和30年頃までが全盛期だった。その長靴下やバックシームのついたフルファッション靴下がよく破れるので街中には、その破れた長靴下を修理する店まで現れた。その店は戦争未亡人たちが家計の足しにと働いていた。切れた糸ひとつを補修し5円~10円の直し賃をもらう。当時としてはかなり良い商売だった。山口信子の仕事人生は家族で営んでいた仕事、すなわち中古ナイロン長靴下のイカシから始まった。                                         (昭和30年代後半に豊橋市花中町の自宅付近で撮影:山口信子)

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